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第10話 米騒動高波に見舞われた翌年のこと、大正七年の八月に米騒動が起きた。言ってみれば、米よこせ運動みたいなものだった。しかし、それは運動というような生やさしいものではなかった。 一道、三府、三八県、三六市、一二九町、一四五村、東京も含め全国にまたがる大騒動、 戒厳令が布かれ、しまいには軍隊がくり出して鎮圧にあたるという大事件であった。 事件についての新聞記事も差し止めになったほどである。 ことの発端は富山県中新川郡西水橋町の漁民の妻女が県外に移出する米の積み込みを 拒否しておこった騒動だった。それというのも、この住民の大部分が樺太への出稼ぎをやっていたが、 その年は不漁で、生活が極度に困窮したため、米屋や米を大量に保有している人のところへ 押しかけ、米を安く売ってくれるよう嘆願したのがことのおこりであった。 たまたま、第一次世界大戦のブームから、物価はどんどん上がる一方だったが、 なかでも米は前年が不作、そして、この年も作柄不良ときたので、急騰した。 大正三年から五年にかけ、第二次大隈内閣の頃は米が一番安かった時で、一升十五銭ぐらいだった。 ところが、六年には二十銭に、そして、七年に入ると、三十銭から五十銭へと はね上がったのある。わずか二年ほどの間に三倍の値上がりだ。 これではさわぐのも無理はなかった。大地主は売り惜しみ、投機がこれに輪をかけたのである。 東京でも人夫、車夫、沖仲仕などの労務者や職人などが中心になって、米の小売屋を襲撃した。 さらに、深川の倉庫が焼き払われるとか、蛎殻町の取引所も危ないとか、色々な噂が乱れ飛んだ。 ちょうど私は痔の手術で築地の林病院に入院していた。米よこせデモ隊の投石で、 病院の窓ガラスも破られた。こうなっては、とても寝ているどころではない。 内臓が悪いのではないから、といっても痔の手術のあとの痛さは経験者のみ知る痛さ、 それをこらえ、こらえ、店に戻った。 政府の打つ手はことごとく失敗し、寺内内閣はついに引責辞職に追いこまれてしまった。 一ヶ月ほどたって、やっと騒動もおさまってきた。ところが、東京では米不足である。 需要がふえているのに、不作に加えて売り惜しみから供給が追いつかずだ。 農林省は何とか事態を打開するために、私ども山繁商店など、七つの大手回米問屋を指定して、 各地から米の緊急集荷を命じた。各店ではそれぞれ割り当てられた地域の米を集めにかかった。 山繁商店の割当は石川、茨城の両県だった。米の主産地というと、 当時は新潟、福岡、兵庫、愛知、秋田、千葉、山形、茨城、岡山などであった。 しかし、自分の県内で消費する分もあり、実際に他県へも売ることの出来るところとなると、 東北、北陸地方が中心であった。新潟、山形、秋田、富山、宮城、滋賀の各県が上位を占めていた。 私は皆と二手に分かれて、現地へ飛んだ。もちろん、米はある。それに政府の意向による 買い付けである。当然、集まるはずだったが、実際にはそうはいかなかった。 各地とも、まだ米騒動の余熱が残っている。県民の空気からいって、 他府県への米の積み出しには、県当局もおいそれと首をタテにふるわけにはいかない。 それこそ、連日走り回り、それぞれの筋にお願いした。おしまいには、頼みます、拝みます、である。 こうなれば、損得づくの話ではなくなる。やっとのことで割当分の手当てに成功した。 みすみすもうかるのがわかっており、国策に協力とはいえ、誰だって、米を出したがらないので、 本当に苦労した。 貧乏人の足元を見すかし、生命の糧で大きくもうける。水呑み百姓の育ちでお米の有難味を 身にしみて感じている私には、何ともわり切れない話だった。根本は米が足りないところにある。 この頃、朝鮮米も年に千四百万石はとれるようになり、台湾米とともに輸入もふえてきていた。 だが、内地米がふえればそれにこしたことはない。 私の主人、山繁さんはもともと米の増産と産米の改良に熱心な人だった。 ところが、肝心の出身地群馬県では、県産の標準米の査定会を行うことさえ、 実現していなかったのである。主人は「産米の改良をすすめれば、食味もよく、 収穫量も大いにふえる」と機会あるごとに県当局を説得していた。 しかし、県会議員達には「上州はおかいこさんの国だ。繭づくりには金をかけてもよい。 米なんか、他の県から買って食えばいいじゃないか」との意見が強く、 標準米査定会の議案もなかなか通らなかったのである。 しかし、前年の米騒動がきっかけになり、大正八年にやっと、県議会を通過し、米の査定所が出来た。 当時、深川正米市場での標準米は埼玉県中米、一般に武蔵中米と呼ばれる米だった。 埼玉県粕壁の晩生中米五十俵を見本に採集し、取引所理事検査員と深川、 神田川両問屋組合から選ばれた各三名の委員が立ち会いの上、三十俵を選び出した。 この標準米をモノサシに、宮城米、常陸米、肥前米などそれぞれ格差をつけた。 これで、値段に差がつく。各産地では、またそれぞれに品評会をやっては何等米かを決めた。 その頃のやり方は今のように科学的な検査ではない。永年の経験からえられた 査定委員のカンによるものだった。 見本の米を掌にのせ、色と光沢を見る。そしてぐっと握ってみる。それだけである。 色と光沢、つまり色沢(いろつや)をみると、よい米はあめ色というか、小判のような色をしている。 熟した時期、乾燥のぐあい、肥料や灌漑の状況などがちょうどよい場合にだけ、 玄米は小判色に輝くのである。そして、握ると、弾力がある。 これでまちがいなかった。のち、米の研究家田所哲太郎博士の本に書かれたのをみても、 「年に数百万石の正米を取扱う米商人は何等科学的智識なきに拘らず 無数の銘柄品種の中より美味米と称して高値に取引しつつある実情之なり 而して其選別は大体に於いて誤りなきが如し」だったのである。 もちろん、このためには我々もず随分勉強した。しょっちゅう、各地の米を手にとっては その特徴を覚えた。はじめの頃はどれも同じようで、ぜんぜん見分けはつかない。 それに、自然のものだから、その年、その年により出来、不出来があり、見分けるのは 簡単ではなかった。品種を、そして産地を、さらに品質をと順々に自らの眼を掌で覚えた。 よい米は値段も高い。査定会が出来たことで、産米の改良が促進されるのは当然の成り行きである。 そういうわけで、主人山繁さんは非常に喜んだ。 この時、私は県議会で米の講義をやった。何をどうしゃべったのか、 今はすっかり忘れてしまったが、一生けんめいに準備したことだけは覚えている。 二十三歳だった。無学の上に、若僧である。それが、新聞記事に出た。 父宇太郎は飛び上がらんばかりに喜んでくれた。 私としてもこれで、いよいよ親孝行も出来るような自信が湧いたのであった。 新聞に載ることは社会が私を認めてくれた証拠である。多くの人の眼にふれる。 その読者の中には、萩原鐐太郎の子、均平の娘「ふう」だったのである。 次へ |
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