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第11話 結婚私と妻との最初の出合いは麹町下二番町の邸に萩原鐐太郎さんがいつ上京されるかを聞きに行った時だった。というのは、かつて、高利貸から主人山繁さんに肩代わりしてもらった借金を返済するに当たり、 同時に担保に入っていた坂口の田畑を戻してもらおうとした。この口聞きを萩原鐐太郎さんに お願いしていたからである。先代の山繁さんはすでに亡くなられていたので、 二代目山繁さんと交渉して頂いたが、なかなかうまく行かなかった。何しろ、四千二百円の元金だけを返済、 利息分は計算に入れてない話だから、借りた方にしても虫がよすぎる。土台、無理な話でもあった。 邸を訪れると、両親の均平夫妻は群馬に引っこまれ、 妻は三輪田高女に通うので婆やさんと二人で住んでいた。初対面である。 口をきいたわけではないが、その姿、態度をみると、上品で、実にきれいだし、 テキパキとした振る舞いに、威勢のよい女学生だなあ、とも思った。一目ぼれだ。 しかし、私のような小僧の相手になるようなお嬢さんではなかった。 大体、家柄がちがう。萩原家は先祖をたどると三百七十年前にさかのぼることが出来る。 武田の残党が群馬の東上、磯部で郷士となったものと言われ、代々名主をやってきた。 鐐太郎は十三歳の時に名主の跡目を継ぎ、明治二年に十三ヶ村の長となる。 そして、三十一年には衆議院議員、代議士に当選した。 のち、製糸業に専念し、製糸の改良、品質の均一化に努力、碓氷社という一種の産業組合を設立し、 アメリカ向け生糸輸出で成功をおさめた。その子、つまり娘の父親、均平は専修大学を出て 日本興業銀行に勤めていた。母親のしげはクリスチャン、十六歳で姉とともに群馬の山奥からわざわざ 神戸の神戸女学院に入り、外人の教育を受け第三回卒業生という人であった。 そういう家庭の娘である。 私から、ぜひヨメさんに、なんていうことは、とても口に出せるものではなかった。まさしく、高嶺の花だった。 事実、私の父が磯部に行った時に、聞いたところでは、親戚筋の帝大出の人とか、 先代の山繁さんが自分の息子の嫁に欲しいとか、立派な花婿候補者がわんさといたようだった。 しかし、私は何とかこの娘と結婚したいと思った。新聞に出たあと、標準米の査定に北海道、 石川、茨城などへ出張していたが、そのついでに磯部の実家へ寄ってみた。大正八年の秋だった。 そこで、結婚話が出た。私としても、大正七、八年と米も株式も相場にうまく当たり、 三万円ほどフトコロにしていたので、その点では自信もあったからである。 娘の母は前に言ったように、非常にハイカラな人で、考え方も進んでおり、結婚は本人の意思が 一番大切だとの意見をもっていた。今でこそ、ごく当たり前のことだが、当時としてはまったく珍しい。 そして、以前に引越しの手伝いに行った時、「この小僧はみどころがある」と私のことを記憶にとどめていてくれた。 こんどは「引越しの時とは、まるでちがうじゃないの」と言って、娘と引き合わせてくれたのである。 二人ははじめて言葉をかわした。 ちょうど、庭にあった柿の木から五つ、六つ実をもぎ、皮をむいてすすめてくれた。 「結婚してもいい。ただ、あなたはお米屋さんだけど、いつまでも、そのままではいやだ」と ハッキリ条件をつけられたのには驚いた。変動の激しい、きびしい商売で毎日鍛えられ、 少しばかりのことでは驚かない私だったが、若い娘にズバリやられたのである。 もっとも米屋そのものが悪いのではなく、一生下積みでは困るというわけだ。 実に気に入った。私も男だ、必ず店をもつ、お前には絶対心配させるようなことはしないと言い切った。 婚約成立である。この時の私の嬉しさは何ともたとえようの無いものだった。 あくる、年大正九年の二月十六日、結婚式をあげることになった。媒妁人は先代山繁さんの実の弟さん、 和田喜太郎さんにお願いした。仕事第一で、突進してきた私もその準備には力を入れた。 そして、いよいよ式まであと三日に迫った時、突然、事件がもち上がった。 前年の秋、農商務省の官吏が殺人事件をおこしたことから、外米の輸入にからむ汚職事件が表沙汰になり、 調査がすすめられていたが、そのトバッチリをうけた私はブタ箱にほうりこまれてしまったのである。 まったく身に覚えがないこととはいえ、これにはまいった。新聞にはデカデカと書かれるし、 結婚式をひかえて、気が気ではない。 せっかくの話にケチがついた。「この際、婚約を解消すべし」との反対論が、 萩原家の親戚の間で、もち上がった。無理もない。もともと、私との結婚話には、 「小僧上がりの男に萩原家の娘をやるなんて……」という意見も強かったぐらいである。 しかし、そうした中で、花嫁になる娘、本人だけは私を信じてくれていた。 この事件がかの有名な「鈴弁殺し」である。 農商務省の米穀担当技官に山田憲という新潟生まれの若い官吏がいた。 彼は外米の輸入商として当時最も大きな仕手の一人だった鈴木弁蔵から金を借り、米相場を張っていたのである。 農商務省がきめる外米の輸入量いかんで、米相場は動く。これを利用してもうけた。 鈴弁の方は鈴弁の方で、自分の扱う外米の輸入について、いろいろ便宜をはかってもらっていた。 こうなると、二人の仲は切るに切れない腐れ縁である。 ある時、鈴弁が貸した金を返してくれるように言ったところ、山田は返さなかった。 何回も催促したが、一向にらちがあかない。そこで「返済しないと、上役に言うぞ」と脅かした。 いかにも、ありそうな話、当然の成り行きである。 山田はこの言葉を聞くやカッとなり、鈴弁をなぐり殺してしまった。しかも、死体を大型のトランクに詰めて、 実家の新潟に帰る途中、信濃川の鉄橋から川へと投げこんだのである。 この頃は物価がどんどん上がり、騒がしい世の中でもあった。 「もり」「かけ」が七銭から一銭刻みに三回も値上げされ、十銭になった。 八幡製鉄所では賃上げ要求でストライキが行なわれ、地方では小作人の争議も多発した。 この時の八幡製鉄所の争議は「溶鉱炉の火は消えたり」の名文句を生んだ。 米価も値上がりの一途であった。外米の輸入をめぐり、御多聞にもれずいろいろ不正も多かった。 そこでこの鈴弁殺しの事件をキッカケに、当局は米穀商について徹底的な取調べをはじめた。 山繁商店としては内地米の取り扱いが主であったから、外米輸入にはほとんど関係がない。 だのに、警視庁に呼び出されたのである。 この時の捜査を指揮したのが、のち読売新聞の社主となった正力松太郎さんだった。 直接取り調べられたのではなかったが、そのきびしさは音に聞こえていた。 本来、警視庁の召還により出頭するのは、店の代表者である主人のはずだった。 しかし、主人、二代目山繁さんは先代とちがって、ほとんど店に顔を出さず、 商売のことは私ども使用人任せであったから、たとえ出頭したところで説明出来ない。 そこで、身代わりというのはおかしいが、私が事情を詳しく説明するべく、出ていったのである。 ところがブタ箱に入れられた。これが、新聞に載ったわけだ。 あとで検事局へ呼ばれた際、「政府の指定商としての利益は店と主人のもの、 責任者の主人が出てくるのが当然」と検事に言われた。いずれにせよ、兵隊での経験によって、 以前よりも度胸もついていたこともあり、何とか大役をつとめおおせた。 悪いことはしていないので当たり前とはいいながら、やっとのことで、婚礼の前日に無罪放免となった。 何はともあれ、結婚式をあげるとこにこぎつけた。場所は芝の紅葉館である。 芝の紅葉館は当時、政界などの有名人がよく集まるところで、私のようなものにとっては いささか贅沢だった。しかし、人間にとって一世一代の晴れの式である。 何かやる時は一流の場所で、というのが私の信条であった。そして理想でもあった。 それに、大正七年、八年の相場でもうけていたからこの時ばかりは気ばった。 日頃はケチ種と仲間の間で言われるほど、勘定には細かく、 節約第一に、金をためてきた私だが、それも時と場合による。 挙式や披露宴の準備はあらかた私一人で手配してあった。そして、当日のことである。 「花婿はどこにいるのかね」「いま玄関で下足番していましたよ」ということになった。 言ってみれば受付兼下足番である。披露にお招きしたお客さんの顔ぶれは、 私が一番よく知っていたためである。大体、結婚式の当日になれば、 花婿はヒマで気楽なものと相場がきまっているが、私の時は大違いであった。 晴れて思いどおりの花嫁と一緒になった。 当時のことゆえ、新婚旅行もしないでいきなり新婚生活がはじまった。 牛込若松町で、二階を借りた。部屋は六畳と三畳の二つ、家賃は一月二十五円であった。 月給五十円だったから、半分が家賃に消えてしまう。おまけに女中さんも一人やとったので、 月給だけではとうていやっていけなかった。私としては随分無理をしたのだが、 そこは、貯金がものをいってくれた。蓄積の強味である。 ところが、式をあげて、ちょうど一ヶ月、大正九年の三月十五日、突如、相場は大暴落した。 米も、株もである。三年つづきの大相場の終幕だった。 好況の背景になっていた欧州大戦は前年の六月に終局をつげ、講和条約も結ばれていたので、 おそかれ早かれ、来るべき反動であった。生糸、綿糸の市場も暴落し、混乱に落ちた。 そして、四月七日には増田ビルブローカーが破綻、兜町は立会中止となった。戦後の恐慌である。 この時、日本銀行は一億二千万円の救済金を出したほどである。 米相場の動きをみると、正米市場で三月に入って一石五十五円二十銭と未曾有の新高値がついていた。 この記録は深川の正米市場が閉鎖されるまでついに破られることはなかった。 それが、一転するや、流れは変わり、年末には何と、二十五円スレスレというところまで 叩きこまれてしまったのである。 株も同じこと、新東は三月はじめから一ヶ月のちには半値になり、ついに解け合いせざるをえなかった。 この時、売り方として、大成功をおさめられたのが望月軍四郎さんだった。 ところが、私は貯金もすっかりはたいて、スッテンテン、新婚早々のふわふわ気分は一ぺんに飛んでしまった。 妻には言いにくいので黙っていたが、追い証取りに追いかけられて、逃げ回る始末、帰りは毎晩おそくなり、 随分心配をかけたのを覚えている。賞与まで前借りして、食事はみそと佃煮でしのいだ。 こんな時に長男雄司が生まれた。大正九年の十一月のことだった。 良いこと、悪いことが一緒になって押しかけた年であった。悲喜こもごも、とはこんな状態をいうのであろう。 てんやわんやを地で行ったのである。 次へ |
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