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第12話 石井定七に売り向かうだが、相場では翌年には見事に仇をとることが出来た。それは、大相場師石井定七の買い占めに売り向かった相場での勝利である。 石井定七は滋賀県の人で、材木商から出発、まず材木の買い占めに成功、折からの欧州戦争、 第一次世界大戦を背景に米相場でも買い占めに乗り出して次々に当たりをとった。 とくに、大正六年には大阪堂島の米市場で連合軍を結成、大きく儲けた上、 綿糸から銅山にまで手を伸ばし、連戦連勝、”横掘将軍”のあだ名をたてまつられていた。 彼の邸が大阪、横堀にあったからである。 大正九年に末には経済恐慌と六千三百万石という大豊作によって、売り叩かれた米相場も ようやく戻りをみせていた。しかし、六月頃までは大したことはなかった。植え付けは順調だったし、 天候にも恵まれていた。ところが、土用に入ってから八月一ぱい雨ばかりである。米作にとって、 土用は一番大切な時期だ。この間に三日照れば平年作はまず何とか出来るといわれるぐらいだ。 それが全然ダメなのである。大凶作になるかも知れない。 石井定七は再び好機到来とばかりに、大阪、堂島の十四の機関店を通じ、買い占めに入った。 七月である。春には二十六、七円だったのに、ぐんぐん値を上げて、秋には四十円台に乗せた。 堂島、蛎殻町の両清算市場で買いまくった。その量は堂島で五十万石、東京で三十万石、 合計八十万石にも達したと言われた。 そして、十一月限の納会には、五十万石をこえる実米を受けた。一石当たり四十五円余り、 その受け代金は実に二千三百万円にもなった。現在の金に直せば二百億円にもなろうか。途方もない話だった。 この時、現物を扱う回米問屋筋は全国の産地から米を手当てしては売り向かった。米の出来は悪かった。 買い方の見通しどおり、大正十年の収穫量は五千五百万石と、前年に比べ八百万石も少なかった。 ところが、売りものは、どこからともなく集まった。例年、東京市場ではみたこともない、 岡山、広島米までも姿をみせた。端境期だろうとおかまいなしに、現物を手当てすることが出来た。 というのは、米相場が高くなると、農家は自家用米まで市場に売りに出してくるためだ。 実際の収入が増えるのだから当然でもあった。前の年に、値下がりのため取りあえずしまっておいたものもある。 そんなわけで、春には十五、六万石しか深川在庫がなかったのに、端境期の頂点である十月には 四十万石以上もの米が集まるという異常現象をみせた。渡し米には十分すぎる量である。 売り方の回米問屋筋は清算市場で売りつないであった分を現渡しした。 それも十分にサヤをとった上でのことである。 蛎殻町の相場が買い占め人気で深川正米市場の相場を上回っていたからだ。 思惑による相場で儲けたのではない。山繁商店本来の委託米売りさばき、サヤトリによる儲けであった。 しかし、量が大きかったので、その儲けは大変なものになった。 その上、石井定七は買い占めた米を自分ではどうにも処分出来ない。結局、その売りさばきの役目は 我々のところに回ってきた。自分達が一たん売った米をもう一度売ることになった。往復の商売である。 こんなうまい話はない。店は創業以来の景気、勤めてから最高の賞与をもらった。 一度はスッテンテンになった私も、一息ついた。この賞与をもとでにして、 こんどは着実に儲けることを心がけた。経験を生かさねばならない。 一つには「凶作に買いなし」、そして「豊作に売りなし」の諺を目の前にみたことである。 そして、もう一つは思惑で儲けるのは大きい。しかし、一つ間違えればとんでもない損をかぶる事である。 およそ、相場に勝った人の話はよく聞くが、最後まで見事に、勝ちをおさめたという話はむしろ、稀でさえあった。 このことを痛感したのは、ずっとあとになってである。何べんも相場に失敗し、 何べんも追いつめられ、にがい、苦しい思いをしてからであった。 なお、石井定七はこの時の買い占め代金を借金で賄ったので「借金王」とも呼ばれるようになった。 ところで、その借金をするのに担保を二重に使って実にあざやかに銀行を利用した。そういう意味では、 稀にみる大相場師であると同時に、計数に明るい人であった。この点大いに学ぶべきだった。 だが、その人をしても買い占めがいかにむずかしいものか、 買い一本ヤリで貫きとおすことが、いかに危険の多いものかをみせた、大ドラマであった。 自らが、その中に飛びこみ体を張って得た教訓ほど尊いものはない。体得というのは良い言葉である。 次へ |
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