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第13話 関東大震災大正十二年の九月一日、あの関東大震災が発生した。ちょうどお昼時、足のウラから突き上げるような、激しい揺れが起こった。グラグラッときた。思わず表へ飛び出すと、道には地われが入り、 近所の文庫蔵(家財道具を入れる蔵)は鉢巻部分が落ちていた。そのうち、屋根瓦は落ちてくる、 壁も崩れ落ちてくる。「これは危ない」と思った。やや、揺れがおさまったところで、 通いの店員をそれぞれの自宅に帰した。私も自分の家が心配になり、取りあえず自転車に乗って、 様子を確かめに帰った。途中、地われをよけながら走ったが時々やってくる余震のために 自転車がバタリ倒れるという有様だった。心は急ぐが、ままならぬ。 そのころ、私は渋谷羽沢町に移っていたので、うちに辿りつくまで随分時間がかかった。 着いてみると、幸いに家はつぶれていなかったし、家族も全員無事であった。 妻や子供の元気な顔をみてひとまずほっとした。 たまたま八月六日に長女の繁子が生まれたばかりで、お宮参りというときにあたり、 田舎から両方の母親が孫の顔をみるために泊りこみで来ていた。 こんな時にはほんとに心強い。家内の母、しげは実にしっかりした人で、やっと帰ってきた私に 「とにかくあなたにはお店が大事でしょう。万一お店が焼けたりしたらどうします。 このうちは私たちが守りますから、すぐお店に戻りなさい」と言われた。 そこで、私は再びもときた道を店へとって返した。このころには、いろんな噂が飛び、 朝鮮人が暴動を起こし、あちこちを襲撃しているといったようなことが、まことしやかに伝わってきた。 さて、ようやく深川まで戻ってくると、永代橋のたもとあたりから火の手が上がっていた。 ここには、荷馬車の馬方達を相手にする「丸三」といううどん屋があった。 あたりをみると火はそこかしこから出はじめている。町の人達は荷車に家財道具をつんで、 思い思いの方向に逃げ出しかけていた。蜂の巣をつついたような騒ぎであった。 もうだめだ。店も焼けると思った私は、とっさの判断で蔵から米を三俵かつぎ出し、 店のすぐ前の掘にとまっていた伝馬船に積みこんだ。通りは荷車や人の波で一杯になっていて、 とても逃げられそうもないから船で避難する他にはない。 金庫から、小切手や現金で三万円ほど入っていた手提げ金庫を持ち出し、 住みこみの店員三人と一緒に、店の焼けるのを見定めてから逃げようとした。 ところが、意外に火の回りは早く、煙にまかれてしまった。いけない、このままでは命も危なくなる。 うまいぐあい仙台掘に顔みしりのハシケをみつけたので、とりあえずそのハシケに手提げ金庫を預けた。 身軽になりやっとのことで、自分の店の船をみつけて飛び乗り、月島まで逃げ出した。 ところが、ここにも火の粉がふってきて、船が燃えだす始末である。船べりはやけどするほどに熱い。 川の水を船や体にかけてがんばった。そばのハシケに乗っていた人の中には、水に入ったきり、 浮き上がってこない人もあった。文字通りの生地獄であった。 仲間の中には、東京湾汽船の船にのり、品川沖まで避難した人もあった。 また歩いて逃げる途中で橋の真中まできて、立往生、どういうわけかたまたま手に持っていたヤカンを 自分の六尺褌につるし、川の水をくんでは頭からかぶって熱気をしのいで助かった人もあったという。 無我夢中の一夜がすぎた。 夜が明けた。火はどうやらおさまっていた。とはいっても、惨憺たる状態である。 陸へ上がってみた。まだ、地震の方は時々余震がやってくる。大きくはないが、気味の悪いことこの上ない。 今さら店へもとってみても、何も残っているはずがないと思ったが、とにかく行ってみることにした。 焼けた永代橋を電車の線路に四つんばいになって渡り、やっと新川へとたどりついた。 道の途中には焼けこげになった死体がころがり、こわれた荷車や燃え残りの道具などが散乱し、 足のふみ場もないほどだった。 崩れ落ちた倉の中をのぞくと、折り重なって人が死んでいる。火を避けて入り込んだ者だろう。 電気はもちろん、水道も、ガスも、なにもない。新聞も、電話もみんなダメ。 食べるものも、寝るところも、全てなし。 静まろうとして、静まらぬ余震、くらやみの中で、二晩、三晩とすごした。 僅かに残った品物の奪い合いなどみにくい場面も珍しくなかった。噂は噂を生む。不安と恐怖の連日だった。 ところで、混乱のさ中に仙台掘のハシケに預けた金庫を探さねばならぬ。 ひとつひとつハシケを調べて回った。ムッとくる異様な臭いの中を必死に探した。 やっとのこと、半分沈みかけたハシケが見つかった。乗っていた婆さんはもはや虫の息になっていた。 手提げ金庫が無事残っていてくれたのでほんとに助かった。銀行には預金もあったが、 すぐおろすことは出来なかったのである。震災後九十日間の支払停止、 モラトリアムが布告されたからである。こんな時は食べものと現金がなくては身動きならない。 店の者にもとりあえず震災手当てを出すことが出来た。 とにかく、手提げ金庫をかついで渋谷のうちへと戻った。実をいうと中身が心配だったのである。 おそるおそる開けると、お札も、小切手も泥水でぐしゃぐしゃになっていた。 一枚一枚丹念にとり出して勘定してみると、すっかりそのまま入っていた。やれやれである。 これを乾かそうとしたが、真っ昼間、人に見えるようなところへ出すわけにはいかない。 とくに、朝鮮人騒ぎのさ中である。やむをえないので、夜はふとんの下へ敷いて寝た。 私にしてみれば店第一に、命懸けでやったことだった。ところが、後で、あいつはどさくさにまぎれ、 ついでに自分のフトコロをこやしたんではないか、などど、あらぬ疑いをかけられたりした。 甚だ心外だった。しかし、みんな神経が異常になっていた時でもあり、無理からぬところもあった。 さて、それから三日ほどすぎ、世情も落ちつきかけたので、主人のところへ報告をするために出かけた。 主人は小田原の別荘にいた。まだ、鉄道はとまったままなので、自転車に乗ってである。 被害の状況は東京ばかりか、横浜もひどい。そして、小田原に着いてみると、主人の別荘はメチャメチャだった。 主人は無事だったものの、妹さんと親類のおばあさんが建物の下じきになって、 圧死するという不幸に見舞われていた。そのお二人の亡骸はとりあえず庭先に埋めてあった。 火葬場も使えなくなっていたのである。夕方だったが、掘り出して、あらためて火葬にした。 おんぼうまでやるとは悲しかった。衛生兵の時に、戦死者の焼き方を教わっていたのが役に立った。 それにしても、この地震の前日、八月三十一日に、私は二人の母親をつれて箱根めぐりをした帰り道に、 この主人の別荘に立ち寄った時のことを思い出し、ぞっとした。 その時、主人に泊って行くようにしきりとすすめられた。しかし、私は翌一日が九月の発会日、 先限は新甫の相場がたつ日でもあるので、折角のもてなしをお断りし、母親達と一緒に東京へ帰ったのであった。 それが、結果としてはよかったわけである。そのことをここへ来てはじめて知った。 運が良かったのである。親孝行と仕事への責任感が、運をつかんでいてくれたのかも知れない。 次へ |
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