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第14話 独立 山崎商店の旗上げ関東大震災の打撃は大きかった。東京は焼野原、我々の所も、倉庫に入っていた大事な米はすっかり焼けてしまった。無一文になった。もちろん、保険は十分にかけてあったけれども、 普通の火事ならともかく、相手が地震ではどうしようもない。ただの一円も保険金はもらえなかった。 しかし、さすが、東京海上ではいち早く、保険金の一割ほどの額を見舞金として払ってくれた。 しばらくたってから、ほかの保険会社も政府の助成金をうけて大体保険金の一割を支払ったが、 東京海上の場合は、とにかく自らの力でやったのだから大したものである。 のちになって、私が東京海上の株が好きで、大株主になったのも、 実を言えば、このときのことが深く印象に残っていたからでもある。 さて、どうしようか。店には借金だけが残った。債権、債務の差し引きは受取勘定の方が はるかに大きかったのだが、取引相手が死んだり、行方不明になったりで、実際に取立てできた分は 一割ぐらい、銀行からの借金だけが残ってしまったのである。 この借金を返すにはこのあと五、六年かかっている。 そんなわけで、震災をキッカケに廃業してしまった店もかなりの数にのぼった。 私の主人、二代目山崎繁次郎さんもすっかり気落ちされて、店をもとのように再建しよう、 との意欲もわいてこない様子であった。その後、ほどなく廃業されたのである。損をされたといっても、 残りの財産は公債に回しても利息だけで十分に生活していかれるだけのものはあった。 私は年も若かった。三十にやっと手が届くところである。たとえ、どんな借金があっても、身体は無事だし、 腕と信用は残った。よし、新規まき直しだ。独立する決意が固まった。 翌大正十三年の七月三日に、資本金三万円で、回米問屋の店を開いた。 この時、新倉多次郎さんも一部出資した上に、いろいろ応援して下さった。 銀行に当座預金の口座を開くについても保証人になってもらったのである。店の場所は正米の取引所がある 深川佐賀町である。日本橋からだと永代橋を渡り、三本目の道を左に入って、 郵便局の前を少し行った先の左手、路地を入ったところ。佐賀湯という銭湯のそばである。 このお風呂屋さんは、今もなお同じ場所に残っている。 いずれ独立して店をもつ、というのが私の小僧時代からの願いであった。 それにしてもいきなり問屋ではなく、小売の米屋からはじめるのが順序である。 しかし、震災という突発的な事件で、一段階飛びこえることになった。 それに日頃から家内に「私はただのお米屋さんに嫁に来たのではないんですからね」と 尻を叩かれていたせいもあったのである。 問屋といっても店の構えは小さなものだった。借地十二坪に、間口二間半、奥行五間、 二階建の延二十坪ばかりの家を千五百円で建てた。店舗兼住宅である。 そこへ主となった私と家内と長女繁子の三人に、女中一人、さらに店のもの五人と合わせて九人が 一つ屋根の下で仕事と生活をはじめた。 狭いが、賑やかな毎日である。自分の店では商いは思うにまかせないので、 深川の正米市場と蛎殻町の清算取引市場を活用することで何とか問屋としてやっていけると考えた。 この独立した時、集まったのは渡辺義男、印藤金之助、時沢郁哉、それに黒沢筆冶という人達であった。 印藤さんは十年ほどたってから、独立した。蛎殻町で私の店と隣り合わせで仲良く商売したのである。 この時つけた屋号は「ヤマ」サ(ヤマガスリ)であった。どこの店も屋号をもっている。 新倉多次郎さんのお店は「ヤマ」大、加藤兵八さんのところは「マル」梅、木村徳兵衛さんは「マル」キ、 司茂綱男さんは「マル」金、平原重吉さんが「カネ」△、ずっとのちに大和証券と一緒になった 渡辺信平さんのところが「カネ」サといったぐあいだった。そして、私の主人、山繁商店の屋号は「ヤマ」キである。 さて、自分の店にはどんな屋号をつけたらよいか、あれこれ考えてみたものの うまい案がなかなか出てこない。結局、思いついたのが、主人山繁さんの屋号「ヤマ」キにあやかり、 キの字を横にして、サの字にした「ヤマ」サであった。 これなら山崎にも通じるし、ちょうどよい。この「ヤマ」サの屋号は昭和四十年に、 山崎証券の社名を山種証券に変更し、「ヤマ」種にするまで、ざっと四十年の間つづいた。 さて、狭いながらも、店を構えたということで、ひとつ、床の間に絵でもかけようと思った。 実は先代の山繁さんは絵が好きで、中でも、古画を蒐集されていた。 小僧時代の私は蔵からの出し入れやら虫干しのときにはきまって、手伝いをさせられた。 得意の米俵の扱いとはいささか勝手がちがい、非常に神経を使うのでくたびれた。 でもいつしか、なるほど絵もいいもんだなあと思うようになった。そして、自分も一枚でよいから絵を買いたいと かねがね思っていたのである。門前の小僧習わぬ経を読むで、その下地は出来ていた。 ある日、主人のところへ出入りしていた画商を案内人にして入札に出かけた。 そして、酒井抱一えがくところの掛軸を一幅買いこんだ。 何となく嬉しい。俺もこんな身分になれたか、日夜、床の間にかかった絵を眺めては悦に入っていた。 ところが、これが後になんと偽物と分かった。まさに、一生の不覚、一杯くわされたのである。 これにはまいった。かんかんになって怒ってみたが、あとの祭である。そして考えた。 私はもともと、芸術を理解するだけの素養もなく勉強する時間ももたなかった。 米なら年季が入っているが、絵は素人だ。どだい、いきなり自分の目でみきわめるのには無理がある、 以来、きっぱりと古画はあきらめた。 そして、現代の作家のかいたもの、主に新画を買うことにした。 いずれにせよ、勉強は必要なので、あちこちの展覧会に顔を出した。三越デパートの美術部にもよく通った。 ここで、桜井猶司さんと知り合ったのである。桜井さんはのちに画商として独立され、 かの有名な”兼素洞”をつくられた人であった。私の美術顧問よろしく、 手ほどきをうけながら、ボツボツ買いこんでいった。 といっても、すでに一流大家の作品は値が高くて手が出せない。 そこで、徳岡神泉、菊池契月その他十人の先生方の絵を一幅百五十円ずつで揮ごうしてもらったのを覚えている。 これがのちの”山種美術館”のタネになったのであった。 当初、絵を眺めて、毎日激しい相場の中で疲れきった気持ちを休めたい、と思っていたのだが、 一方では投資という面も考えた。株と同じで、将来大いに伸びそうな成長株ともいうべき掘り出しの絵を買った。 次へ |
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