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第15話 古米活用で大当たり

 さて、山崎種二商店の看板をかかげたものの、山繁商店時代とは勝手がちがう。世間の信用である。
山繁の時、支配人として、かなり名前を知られるようになっていたが、
実際に独立して商売をはじめてみると、自分で思っていた程ではなかった。
以前は、電話一本で全国各地から大量の米が送られてきた。それも、別に荷為替なしであった。
産地の米問屋、多くはたくさんの小作人をかかえた大地主だったが、山繁を信用していたから、
どんどん米がやってきたのである。これなら手元に一銭の金がなくても、
一たん売りさばいて回収した代金で払えばよい。実に楽だ。

 ところが、独立したばかりの私にはそれだけの信用も、また裏付けとなる実績もない。
今までのような大きな商売をやっていくには独立のために用意した資本金三万円では
とうてい間に合いっこなかった。何としても資金が欲しい。
こんな時、救いの神が現れた。新倉多次郎さんの紹介もあったおかげで、
第百銀行の本庄支店長安藤昇さんが、「よし、何とか面倒をみてやろう」と援助の手をさしのべて
下さったのである。第百銀行は川崎系で、のちに川ア信託から日本信託へと変身していったが、
以後ずっとお世話になることになった。これで、一応資金のほうは心配なくなった。

 しかし、これだけではまだまだである。全国の取引所の間で自由にサヤトリしたり、
各産地の米を大量に取引するには、名前も、信用も行きわたっていない。
こんな状態を見て、先輩の梅原商店の加藤さんが心配して、とりあえずは梅原の名前を使いなさい、
とまで言ってくれた。梅原商店は神奈川県、秦野の豪農、梅原保さんのお店で、
明治十九年から回米問屋としてつづいていた老舗であった。
先代、梅原修平さんは多額納税の貴族院議員で、大変な名望家でもあった。
山繁の店より十年も古く、その信用は絶大であったから、百万の味方をえたような気がした。
後はこうした暖かい御厚意にむくいるために、商売に励むのみである。

 ところが、商売は甘くなかった。開店して翌年、大正十四年には大損を出してしまった。
実米の売りさばきから清算取り引きの売りつなぎと、売りから入るのを得意にしていた私の前に
大きな上げ相場が立ちはだかった。大正十二年から十三年は二年続きの不作、相場もジリジリ上がり、
十四年には石当たり四十円台に乗せて、米騒動以来の高値を呼んだのである。
相場に破れた私は故郷群馬の高崎に飛び、井上保三郎さん(井上工業の創設者)に泣きついた。
私の叔母の嫁ぎ先で縁つづきのせいもあり、乱暴な話だが、
いきなり「何も言わず、私のこの身体を担保に金を貸して下さい」と頼んだ。
井上さんはしばらく腕組みしながら考えていたが、「五千円なら何とかしてやってもよい」と答えた。
五千円では損のアナ埋めをするには、問題にならない金額である。第一、カケ出しとはいいながら、
前途あると自負する自分をたった五千円にしかみてくれなかったことが残念だった。

 といって、当座をどうするか。茂木銀行へも行ってみたがダメだった。
かねて、山繁時代から取り引きのあった高崎の中村重蔵さんが大変に心配して、
安中の米屋で米庄(こめしょう)と呼ばれ、当時名望のあった柳沢庄平さんに紹介して下さった。
やっと、いい線が出た。切り抜けられた、と思ったとたん、ほっーとして思わずそこに坐りこんでしまったのである。
さて、何とか挽回しなければならぬ。毎日、毎日、作戦を考え悩んだ。そんな時ふと、
大阪に十万俵近い売れ残りの古米があるとの話を耳にはさんだ。

 これは何とかいけるかもしれない。この古米が使いものになれば、相場は下がる。
そこで、大阪に出向いた。買いに来たのが売り方の私とわかってしまってはまずい。
わざわざ、目立たぬよう安宿に泊り、名前も金子と変えた。そして、小幡というブローカーに頼んで
古米の入っている堂島の倉庫を全部調べることにした。ところが、すでになんべんもサシ
(俵にさし込んで中身をとり出し、検査するための道具)を入れてあり、虫がついていて、
みそか、しょう油の原料にしか使えない状態という。やっぱりダメか。一たんはそう思った。
でも、大阪くんだりまでやってきたのにと、念のため今一度、倉の奥のほうまで調べてもらったところ、
大丈夫使えそうなことがわかった。しめた、これならいける。来た甲斐があった。
早速、その十万俵近くを買いこんだ。今ならば十億円をこえる量である。

 さて、この米を大阪から東京へ送るのが、これまた一仕事である。ダメな分をとり除き、指定列車に積みこんだ。
大阪の梅田駅と東京の汐留駅の間を二往復して、無事運びきった。この間、つきっきりであった。
この数年来、米の作柄はあまり良くなく、買い方有利の相場がつづいていた。
それに、端境期であったから、東京の買占め派はすっかり安心しきっていた。
そこへ、十万俵の米が突如として現れた。相場は一転して大暴落となった。もちろん、私は蛎殻町の清算市場で
あらかじめ売り建てしてあった。古米活用作戦は見事に当たった。
そして、生まれてはじめて三十万円という大金を手にしたのである。

 しかし、私が大阪で古米を手当てしている頃、留守は大変だった。売り玉はかつがれ、
追い証に困っていたのである。留守を預かった時沢君はかけずり回った。
結局、梅原の加藤兵八さんのところに飛びこみ、この急場をしのいでくれていた。
それで、やっと間に合い、もうけをフトコロにすることが出来た。
この時から、誰いうともなく私のことを山種と呼ぶようになった。仕手の一人として、認められたのである。
ふり返って見ると、倉庫を念入りに調べたのが大成功のカギとなったわけだが、
これも小僧時代の苦しいが、有難い倉庫番の体験によるものだった。


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