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第16話 買い占め派との対決

 昭和三年、「カネ」三 高垣甚之助による買い占めがあった。それは大きな思惑だった。
高垣は蛎殻町の清算市場で買って、買って、また買った。
その買いっぷりの良さから、彼一人の思惑ではなく、
その背後には久原房之助がいるのだろうとか、いや伊東ハンニだろうとかいろいろ取沙汰された。
でも、買いの本尊が誰なのかはさっぱりわからなかった。
これに対して、私をはじめ深川の回米問屋筋はいっせいに売り向かったのである。
この年は政府の第一回の収穫予想が不作を伝えていたところから、
相場は夏場をさかいにぐんぐんと値を上げていった。

 売り方は大きくかつがれたわけだが、一向に心配はない。産地で現物を手当てしては、
サヤをとって売りつないでいたからである。しかし、全部が全部つなぎではなかった。思惑分も入っていた。
そして、新米がようやく出回りかける十月初めには、一石あたり三十八円三十九銭という高値をつけた。
だが、これを天井にして相場は急反落した。流れは変わった。好機到来である。
戻り高値をつけ終わったところを見極めた上で、どっと売りを浴びせた。先限は完全に底抜けとなった。

 相場には完全に勝った。しかし、困ったことが起きたのである。高垣の買いは実に二十五万石、
ざっと六十三万俵にものぼった。受け渡しの段になったところで、現物は産地からどんどん届いてくる。
量が多いから検査には手間どるで品物が痛みはじめたのである。
しかし、この方は代米を手当てすることで、何とか切り抜けられるメドがついた。

 ところが、肝心の買い方、高垣には金の手当てがついていなかった。相場は暴落、
今さら二十五万石もの実米を引き取ってみても、売りさばくには大損をださねばならない。
そんな人間に誰も金を出すはずはなかろう。受け代金がないのである。
といってこのままでは受け渡しは不能なり、売り方もお手上げになる。
現物を売った人も、相場に勝った人も金がとれない。これにはまいった。

この時、梅原の加藤兵八さんが乗り出し、危機を救ってくれたのである。受け渡しを無事すますため、
取引先の銀行を説きふせて、買い方に四百万円という大金を融通してやった。
たとえ、決済不能で総解け合いになり、受け代金として金を使わずにすんだ場合でも、
利息だけは必ず払うとの条件だったという。加藤兵八さんにとっては、一生をかけた
大きな事件であったように思う。私は加藤さんを一層尊敬し、ますます好きになったのである。
ここで、私は店を合名会社組織にした。

 大阪の古米を活用して成功したあと、加えて高垣甚之助の買い占めにも売り勝って
完全に私は波に乗った。しかし、例年東京か、大阪のいずれかで開かれる「甲和会」に出席すると、
まだまだ上席に座るにはほど遠かった。
この甲和会というのは、一年に一回全国各地の米相場の大手が集まる親睦会であったが、
その席には新潟の松本利作、幸田慶三郎、清水久吉、大塚佐吉、坂田の菅沢久五郎、荒木幸吉、
東京の萩原長吉、木村徳兵衛、平原重吉、その他田辺卯助、田辺米吉、
名古屋の田中貞二などといったそうそうたる人達がキラ星の如く居流れていた。
私にとっては「何分ともよろしくお願いいたします」と杯を頂いて歩く席でもあった。
まだ三十五、六という年頃から言っても当然であったろう。だが、同時に、こうした方々と
お近づきになれたことは、のちに、有形、無形のプラスとなって現われた。
目には見えないが測りしれないほどの大きな財産になったのであった。

 昭和七年には”黒頭巾の買い占め”があった。買いの本尊がはっきりわからなかったので
蛎殻町では黒頭巾と呼んだ。でも、日にちがたつにつれだんだん正体が浮かび上がってきて、
どうやら、怪物伊藤ハンニらしいことがたしかめられた。
伊藤ハンニとは本名を松尾正直といい、当時年の頃は三十前後ながら、
しょちゅう大きな相場をはっていた。そのうしろには満州国建国の立役者といわれた
板垣征四郎がついており、日本で買った米を満州に運んで売りさばいているとのうわさもあった。
前年の昭和六年九月、柳条溝で満鉄の線路が爆破され、満州事変が勃発した翌日、
伊藤ハンニが軍へ五万円もの寄付をしていたことなどから考えると、どうやらほんとうのようにも思えた。
いずれにしても、時の政治家、軍人、そして官吏との結びつきを巧みに利用していたにはちがいない。

 この時、伊藤ハンニは自分の手口を相手に読まれないよう、蛎殻町の仲買店三十軒のうち、
七軒ほどの店を通して買い注文を出した。狙いはよかったのだが、少し分散しすぎたきらいがあり、
かえって正体を見抜かれてしまったのである。
相手がどこの誰かがはっきりわかれば、仕手戦では半分買ったも同然だ。
深川の回米問屋筋は断乎売り向かい、ついに勝ちを納めた。
相場は戦である。「はかりごとは密なるをもってよしとなす」。
静かに、静かに、目立たぬように相場を張るのが、最上の策と言うべきだろう。
派手な動きをみせてしまえば、相手も新しい手を打ってくるし、
途中で引くに引けなくなって深みにはまることも多い。

 大体、私がきまったように売り方に回るには、三つほど理由があった。
一つには、回米問屋の小僧時代から、もっぱら米の売りさばきをやっていたので、売りに慣れていたし、
一種の習慣となっていたこと。二つには、買い占めが嫌いだった。
国民にとって、日常なくてはならむ主食の米を買い占め、値段をつり上げてもうけるなんて、
とうてい我慢がならなかった。第一、そんなに高い値段につり上げられた米を一体誰が食べるんだ。
どうしても、買い占めでもうける気にはならなかった。
そして、三つには、一石四十円前後で売っておいて、二十円で買い戻したとする。
当時の日本は農業中心の経済であり、米が下がれば物価も値下がりしているので、
金の値打ちがそれだけ上がることになる。逆に、買いで同じ二十円幅を利食っても
物価が上がっていれば、金の値打ちはその分だけ目減りしてしまう。
正米市場で育った私にとっては、実米の売りつなぎは、もっとも得意とするところ、
売りからの方が入りやすかったのである。


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