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第17話 山種の基盤を築く

 私の商売の基本は正米の取り引きを大きな柱に、定期取り引きでのサヤトリという固いソロバンにあった。
それは相場師として、派手に、大きく儲けるのとはちがい、わずかな委託手数料、
そして、細かい日歩計算による地味な儲けである。
この方法は絶対確実で、損を出すことは滅多にない。しかし、大きな利益をうるにはどうしても大きな資金が要る。
大量に米を動かすには手金だけでは、たかが知れている。何とか、銀行から少しでも多くの資金を引き出したい。
それには、銀行に信用を積む以外になしだ。私は、まず預金をした。毎月、毎月、儲けを積むように、
銀行の決算期末や年末には出来るだけ預金をふやした。もっとも、利息は年に三分程度のことだから、
利殖という点ではとても話にならない。しかし、これを貫いた。目的は別にある。

大体、相場をはる人達は、大きく儲けるかわり、大損もする。「株だけは孫子の代までやらせない」とか、
中外商業新報(いまの日本経済新聞)をとっているだけで、何かと噂される時代だ。
浮き沈みの激しさは想像をこえるものがあった。これでは、おかたい銀行が金を貸すはずもなかった。
いずれにしても、一文無しでは一円も借りられない。千円預金があれば千円貸してくれる。
たとえ、わずかずつでも、預金を積んでいけば、意志の強さ、実行力という点で、信用もついてくる。
そして、「借金したら期日にはいかなることが起こっても、キチンと返す」ことである。
先代の山繁さんに教えて頂いた商道徳の一つだった。
聞いてみれば、ごくごく常識的な話であるが、要は実行、実績である。
こうして、次第に取引銀行もふえていった。

 まさに、信用こそ基本である。深川の取引所には”信為万事本”の大きな額がかかっていた。
これこそ、今日の私を築いたタネだったのである。のちに、川合玉堂先生にお願いして、
同じ言葉を書いて頂き、額装し社内にかかげておいた。昭和八年は千万トンをこえる大豊作となった。
もちろん、史上最高の出来で戦前ではついにこの数字を上回ることはなかった。
米価の方は昭和に入ってから下がりっぱなし、農村不況は深刻になる一方であった。
政府もこうした状態に頭を痛め、米国統制法を立法化するとともに、米価の値下がりを防ぐため、
買い上げにふみ切った。その時、責任者になったのが、農林省の米穀部長荷見安さんだった。
われわれ主だった回米問屋が呼ばれ、協力を要請された。

 さて、買い上げるのはよいが、容れものはどうするのか。私は農林省に対し、
「喜んで、出来るかぎり協力いたしますが、倉庫の手当て方を......」とお願いした。
ところが、「それは、お前達米を売るものが考えなさい」というそっけない返事である。
そこで、私はピンときた。倉庫を確保しておきさえすれば、大儲け出来る。
米を買うのはあと回し、とにかく、倉庫を借りるのが先決だ。
例によって、例の如く、梅原の加藤さんに相談をもちかけた。私の資金と信用では限りがあり、
少しばかり手当てしたのでは、せっかく掴んだチャンスも十分に利用し切れないからである。
晩メシを食べながら加藤さんを口説き落とした。

翌日より、現金や公債を積んで、東京にある倉庫で空いているところを片っぱしから押さえた。
アイデアを提供した上で協力者になってもらったわけだが、大成功をおさめた。
新米がとれると、一ヶ月足らずのうちに、産地からぞくぞく米が東京に入ってきた。
秋葉原や、隅田の駅は米の山となった。東京ばかりでなく、大阪、神戸、横浜などの倉庫も
米で満杯状態である。この米を政府へ売り渡した。
当時、東京で消費される米は年間一千万俵ほどであったが、この年に政府の買い上げた全国の米は
実に二千万俵にも達した。そのうち、約一割に当たる二百万俵を私が取り扱ったのである。
その利益は莫大なものだった。

同時に山崎種二商店は回米問屋としての基盤を確立した。
加藤さんとのコンビを組んでこその成果であり、多くの回米問屋仲間の中には倉庫がなくて、
みすみすこの機会を見送らざるをえないところもあったのである。
やがて借り倉庫精神は辰巳倉庫設立への基本構想ともなっていく。

 私が取り扱った米は、もちろん内地米が中心ではあったが、朝鮮米や台湾米も積極的に買い入れた。
その当時、内地米のとれ高六千万石前後に対し、
朝鮮米は五〜六百万石、台湾米二百三十〜二百四十万石が輸入されていた。
外米といえば、今も昔も変わらず、まずい米として誰も相手にしない有様だった。
たしかに、はじめて輸入された頃は、小石や砂などが沢山まじっていて、
人間の口にのぼるしろものではなかった。しかし、大正末期には、品種の改良も施され、
また精白の技術もすすんできたので、問題はなくなっていた。安くて、しかも品質がよく、
食味も内地米に劣らぬものが出来た。大体、内地米と同じ種もみを使ったのだから、当たり前でもあった。

その上、台湾では一年に回とれる二期作、一期作の分はちょうど内地で端境期に入ろうとする夏場に輸入される。
ここに眼をつけた。大いに台湾米を宣伝しながら、普及につとめた。
その甲斐あって、次第に評判もよくなり、取扱高もどんどんふえていった。金貸しであり、
米相場もやっていた馬越文次郎さんなど私のところから大いに朝鮮米を買ってくれた。

 実を言うと、外米に眼をつけるには、それなりの下地があった。山繁時代の先生、新倉多次郎さんが、
朝鮮米について造詣が深く、懇切に教えて頂いていたからであった。
その時は、小僧だし、どうすることも出来なかったが、二十年をへて、その教えを生かすことになった。
この昭和八年は政府買い上げ米と外米とを合わせ、五百万俵近い商売をやり、
その儲けも、ざっと百万円をこえた。私の米屋としての最盛期である。
しかし、その後も毎年、取扱高は三百万俵前後と、昭和十四年に米穀商品取引所が閉鎖されるまで、
業界第一位の座を占めることが出来た。
もはや、米相場であてるというより、手数料だけでも、十分やっていけるようになれた。もう安心だ。
ちょうど四十そこそこ、男として働きざかりを迎えたころである。


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