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第18話 兜町進出 株の世界へ

 だがその頃、蛎殻町の清算市場では、どうも山種のやつは面白くないという空気も生まれていた。
サヤトリといっても、思惑分もあるし、常に大きく売り玉を仕掛けていたので、
清算市場だけで相場を張る人にとってはやりにくいのも事実だった。
とくに、米相場の大手、三橋升三、田辺卯助、平原重吉、榊忠治といった人達は心よく思っていないらしい。
私としても、そう反感をもたれたのでは、やりにくくなる。困ったなあ、と思っていた。

すると、前々から懇意にしていた滝田栄三郎商店の中島為吉さんが、
相手の人達をよく知っているというので、橋渡しをしてもらった。これで大いに助かった。
中島さんとは関東大震災のあと、加藤兵八さん、それに故人となられた加藤文之丞さん、
重野冶右衛門さんと一緒にメシを食ったり、相場の話をたたかわしたりの仲だった。
よく、柳橋の”生稲”や、やげん堀の鳥料理屋”末善”など利用したものだ。
のちに、中島さんには関係会社金山証券を預かってもらうことになった。永いつきあいである。

 ここで、私は株の方にも進出することにした。それだけの余力も出来たからにはちがいないが、
政府買い上げがはじまり、米の仕事はふえたものの、次第に統制の方向に動き出したからである。
軍国主義のにおいが強くなってくる。この分では主食の米が民間の手で自由に売買出来るのも、
そう永くはあるまいと感じた。

この点については、時沢郁哉君が早くから「株にも出るべし」との意見をもっていた。
彼はふだんからつきあいもなかなか広かったし、農林省のお役人とも近づきがあった。
米が将来どうなるかといったことについて、いろいろ情報をえていたようだった。
これまでも米相場だけやっていたわけではなかった。生糸から棉花、綿糸などの商品はもちろんのこと、
株にも手を出していた。根が好きだから、手をこまねいているようなことは出来なかったのである。
だが、株は本腰を入れたものでなく、一投資家として、ボツボツというところだった。
注文は、いち早く株の仲買人にもなっていた山吉、鈴木由郎さんのお店に出していた。

 当時の株式市場は今とはちがい、清算取り引き中心の投機色の強いものであった。
三ヶ月先までの先物取り引きを扱う長期清算取り引きと一ヶ月以内に決裁する短期清算取り引き、
それに実物取り引きと三種類の取り引きがあったが、取り引きの内容をみると、
実物はせいぜい七〜八%、残り九十%以上が長・短二つの清算取り引きだったのである。
米と株、取り組む相手はちがうといっても、売買の仕法は蛎殻町と同じだ。

その点は手なれたもの、ウデ試しの方も調子がいい。
その上、都合のよいことには、米相場の大手は株式相場の上でもまた大手であった。
米のお得意さんは、そっくり株の方のお得意さんにもなる。
顔見知りだし、これまでの取り引きからみても信用は十分である。電話一本で注文がとれる。
話は決まった。すぐさま商売開始である。

責任者にはこの案の提唱者でもある時沢君になってもらうことにした。
翌日からその準備である。当時の監督官庁、商工省に再三再四通い、
先輩の山文や山吉などの店に行っては教えを乞うて一生懸命に書類づくりをやってくれた。
その甲斐あって、わずか一ヶ月ほどのうちに許可が下りた。
こんなに早くなるとは思ってもいなかったので、実はおどろいた。

 蛎殻町の店の一部を仕切って、株の仲買いの仕事がスタートした。
商売は最初考えていたより、はるかによく出来た。幸先よしである。
ところが、自分の玉だけでなく、お客さんの玉を扱ってみると、なかなか大変だった。
何しろ急にはじまったこと。正規の帳簿はもちろん、伝票一つにしろ、ぜんぜん揃っていない。
とりあえず、よその店からもらってきて、間に合わせるような始末だった。
不慣れな上に、人手が少ないことも手伝って、毎晩十二時ごろまでやらないと仕事が片づかない。
残業の連続、店のものも、住みこみにしても、きつかったようだ。

当時の店員といえば、米と株を全部入れても四十人足らずにすぎなかった。
深川の正米取り引きの責任者には小黒喜一、蛎殻町の清算取り引きでは米が早貸栄次郎、
綿糸が山崎孝志、そして株式は総支配人として時沢郁哉、それに佐護直司、上西康之といった人達が、
それぞれの部署を守ってくれていた。早貸君はのちに山崎証券の常務取締役に、
時沢君は辰巳倉庫の専務取締役に、上西君は独立して、日栄証券社長になる。
小黒君、早貸君は惜しいことにすでに故人となられた。

 早貸君は富山の出身で、根っからの市場人だった。扇子商店というところから私の店へ来たが、
当初は蛎殻町の市場で手を振ってもらった。名前が珍しいし、その男前と気っぷの良さでは
同業者仲間で知らない人はないくらいであった。だが、私にとっては外向きというより、むしろ内向き、
かけがえのない忠実な女房役でもあった。大体、私の若い頃は先代山繁さんばりに、
店員にはきびしく、年中がみがみ雷を落とし、やたらにお前なんかやめてしまえ、と叱り飛ばしていた。

そうはいっても、ほんとにやめて行かれたのでは大変だ。そんな時に間に入り、私の言いすぎを諌め、
また店員をなだめてくれていた。とにかく、力まかせ、強引に押しまくっていたから、しょっちゅうのこと、
そのたびに、早貸君は店のため第一に一人で思い悩み、ずい分苦労していたように思う。
それをよいことに、面倒くさいあと始末は何でも彼に押しつけてしまった。
時沢君と早貸君は私の言わば両腕だったのである。

 少し仕事の方がひまになると、新しく入った店員達を集めて、その日の人気株の高値、安値、
終値を質問したり、ソロバン競争をやっては、訓練もしてくれた。今で言う、社員教育である。
成績優秀者には、下着の上下などを賞品にしたように覚えている。
こうした人達、柱となって、いよいよ兜町で山崎商店の棟上げの日を迎えたのである。
いくらか余裕が出てきたのも、この頃だった。少なくとも、それまではまったく、ぎりぎりの毎日を送りつづけ、
周囲のことまで気が回らなかったというのがほうとうかもしれない。
だが、気になっていたことがあった。それは鏑川の橋をかけるという女房との約束である。

 鏑川といえば、まず最初に思い出すのが、徴兵検査の時だった。この時、大雨のあとで、
川止めにあった。徴兵検査の日は迫るし、いらいらしてしまった。
その後、婚約がきまって、二人で私の坂口の家に行った時のことである。橋がないので、
馬で川を渡らなければならなかった。弟の篤二が馬を引いて川岸まで迎えに来ていた。
妻の手をとって乗せてあげたが、「私は馬に乗るのは嫌いです。こんな川、馬で渡らないですむように
橋をかけて下さいね」と言われたのである。「ああ、きっと橋をかけるよ」と約束してあった。
そこで、鏑川に星川橋をかけた。つづいて塩畑堂橋もかけた。この道は県道にしてもらった。
時の内務大臣であった安達謙蔵さんにお骨折りを願い、塩畑堂橋には開橋記念の碑をかいていだだいた。

 見方によると、同じ寄付ならもっと派手なやり方もあった。
しかし、橋だの、道などの地味なものに寄付をしたのにはそれなりの理由もあった。
というのは、この頃、高崎の白衣観音を作られた井上保三郎さんに「世のためにお金を使う時には
道を作るような隠れた仕事が一番良い」と言われていたのである。
もっとも、この意見を聞いた時には「なんだ馬鹿らしい}と聞き流してしまっていたのだが、思い直した。
 ところが、この橋が十年もたったのちに大きな役に立った。太平洋戦争の時、
家財を坂口の実家へ疎開するときである。荷物を満載したトラックが楽々と通れた。
もちろん、そんなことになろうとは、当時は考えてもみないことであった。


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