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第19話 本社ビル建築私としては、昭和に入ってからというもの断然ツキ出した。世の中は不景気時代の到来で、私とは逆になっていた。昭和二年には金融恐慌が襲い、鈴木商店は破産する、銀行はバタバタと倒れる、 というわけで大騒ぎ。やっと、よくなったかと思ったら、 昭和五年に例の金解禁による大不況がやってきた。「円切り上げ」である。 この年、米は一千万トンをこえる史上最高の大豊作。米価はたちまち大暴落して、 石当たりわずか十四円という安値に落ちこんでしまった。大正のはじめ頃の値段だ。つい、二〜三年前までは 石当たり三十円から三十五円ぐらいしていたから、半値以下、一俵になおせばざっと六円である。 おまけに、生糸も世界大不況のおかげで、明治二十九年以来の安値に暴落した。 当時の日本では何といってもまだ農業の地位が大きく、輸出の大宗は生糸であった。 農村恐慌で娘は身売りに出され、都会でも失業者が町にあふれ、人間まで安売りされる有様だった。 "大学は出たけれど"の時代である。 株式市場をのぞくと、人気株の代表、新東(東京株式取引所新株式)が百円の大台を切っていた。 新東の百円割れというのは二十五円払い込みになってからは、明治の末期はいざ知らず、他に例がない。 鐘紡は十五年ぶりの安値、日本郵船が五十円を大幅に割って二十円台に、王子紙、日魯、 浅野セメント(日本セメントの前身)、日本産業(日立の前身)などいずれも上場以来の安値、 日本鋼管などは、何と五円台になってしまっていた。 この頃、金解禁の政策はあやまりであると、強行に主張していたのが、今なお活躍されておられる 高橋亀吉先生や石橋湛山氏であった。 理論はよくわからないが、たしかに、こんなベラボウな状態がそう長つづきするはずはない。私もそう感じていた。 中でも、高橋先生の意見には注意を払った。というのは、当時、兜町で相場師として誰一人知らぬ人はいない 当たり屋、林荘冶さん(丸荘証券の創立者)の知恵袋といわれていたからである。 関東大震災の直後、一体どうなるんだと皆がさわいでいる時、高橋先生は林さんに復興景気が起こると指摘され、 東京電灯売りの鐘紡買いの作戦をさずけられた。 林さんは兜町は立会停止中だったので、東京電灯の株券を袋につめて大阪に行き、 これを全部売って、鐘紡に乗りかえた。これが図に当たり、一挙に大金を手中にすることになった。 そういう話が語りつがれていたのである。 私は今でも高橋先生とはおつきあいを頂いている。戦後、私どもで講演会を催すたびごとに、 講師として、御出馬をお願いしてきた。 とにかく、先生と兜町のわれわれとは長い間の、そして切っても切れぬ縁とも言えよう。 この時、高橋先生は金輸出再禁止、国内景気刺激策の即時採用を唱えておられた。 こう何でもかでも安いのだから、どれでも買っておけば、いずれ値上がりするにちがいあるまい。 米相場でいう「豊作に売りなし」ではないが、買う他なしである。 大いなる悲観は大いなる楽観に通ずとも言う。 家内は「とにかく、早く土地を買っておいた方がよい」との意見であった。私も、店は手ぜまでもあるし、 また、おとくい先の中には、最初、馬越文次郎さんなど「こんな小っぽけな店に、注文して大丈夫か」と なかなか信用してくれなかったこともあったぐらいなので、麹町三番町と兜町に、それぞれ土地を買った。 麹町は自分の住宅のため、兜町は株屋としての店を出すためである。 ついでに、株を買ってみた。土地を買う以上、いずれ、その上に建物をのせるわけだ。 今日でいう目的預金よろしく住宅資金をひねり出すための投資である。まことに常識的だったが、 建築資材を作っている会社の株、つまりセメントでは浅野セメント、材木の秋田木材、鋼材の日本鋼管、 それに日本産業と東京電灯の株を仕込んだ。これが、大当たりだった。 金解禁が断行されたあと「金」はどんどん国外に流れて出て行く、国内では緊縮政策への不満がつのって、 浜口首相が右翼の暴漢に狙撃されるなど、次第に不穏な空気が強まった。 翌六年の秋に満州事変が勃発するなどゴタゴタつづき、そして年末になって、犬養新内閣の成立と同時に、 金輸出再禁止となった。株式市場は一斉に大暴騰である。以後、昭和九年まで、大勢上昇となる。 ただの五円の日本鋼管が昭和七年には二十五円台、十五円の日本産業が四十円台、 二十円の浅野セメントが五十円台にはね上がり、昭和九年になると、 日本鋼管は実に百五十円という高値を呼んだ。もちろん、最安値で買って最高値で売るなどという ”神業”をやってのけたわけではないが、もうけは大きかった。 「売りの山種」が「買いの山種」でもうけることになった。 予想外のもうけが出てきたので、この際思い切って、店も、住まいも一ぺんに建てることにした。 私は大正十三年に独立した時、大体、十年一区切りの計画をたてていた。 十年間はどんなことがあっても同じ体制で行くつもりだった。というのは、店や、住まいを大きくすると、 つまり世帯を拡げてしまえば、そうでなくてもかさむ経費は輪をかけてふくらんでしまう。 いくら余計にもうけても、経費に食われて、残らなくなる。 十年間我慢するというのが、私なりの”生活の知恵”であった。 しかし、今回にかぎり、予定より早目になった。やるときまれば、気がせく。 兜町の店はせいぜい四〜五万円でも建てられるところだったが、だんだん慾が出てきて、 あれこれ注文をつけた結果、工費は十八万円にもなった。 少しでも良いものを作ろうと、あちこち建物を見て歩くうちに、そうなってしまったのである。 その頃、際立った建物といえば、尾張町の交差点、銀座四丁目の服部時計店だった。今の和光そのものである。 あの外側に使われている赤味の入った花崗岩、そして内側の壁に張りつめられた 淡いクリーム色の大理石、どれもが、私の好みにピッタリである。 私は石が好きだ。その色、つや、年を重ねるにつれ磨きがかかる。 壁、床、カウンター、そして役員室につけたマントルピースも、大理石で飾った。 昭和十年、当時にしては珍しい五階建て、花崗岩、大理石をふんだんに使い、 東京でも二番目の自動式エレベーターを備えたビルが完成した。 この建物は現在の本社ビルに発展するまで、三十年間、山崎証券の本社となったのである。 一方、麹町の方は総ヒノキ造りの純和風にした。たまたま、営業担当として、 腕をふるっていた上西康之君は奈良吉野の出身で、材木商の経験者であったから、 普請奉行になってもらった。材木を十分に吟味した上で、庭木の方まで気を使ってくれた。 こちらの方は工費五万四千円。”三番町御殿”とまでいわれたほどの豪しゃな住まいが出来上がった。 満四十歳の時である。 大きく儲けたとはいいながら、いささか、調子に乗りすぎた感もあった。 年齢から考えると、得意なっても無理もなかったかもしれない。何しろ、新聞にも顔写真入りで、 私の意見がのるようになっていたからだ。つい、四〜五年前のこと、群馬県の人から手紙とともに 古い新聞の切り抜きが送られてきた。それは昭和十年の元旦付の中外商業新報であった。 そこには、米穀界の本年の見通しということで、田中貞二(米相場の大手)、 松村金兵衛(神田川正米市場幹事長)、杉 田栄蔵(東米正米部委員長)といった有力者達にまじり、 いっぱしの意見を述べている。年齢は私が一番若かった。 私と新聞、とくに記者の皆さんとのつきあいは長い。というのも、私には新聞が先生であり、 その記事を書いている記者さんの話からうるところが大きかったからである。 ”売りの山種”として、知られるようになってからは、私の意見を聞きたいというので、 店の方にちょいちょい見えるようになった。読売、都、報知、中外新報などの方だった。 しかし、そんな時、私はもっぱら聞き役に回りがちだった。 それは、自分の相場の狙いを探られては困るといった面もあったが、 それよりも、新聞によって作られていく社会のいろいろな意見や見方を知ることが出来たからである。 その上、ニュースをどう解釈したらよいか、どう判断すべきか、という点で大いに教えてもらった。 私にとって耳学問は実に有難い。だが当時新聞記者さんには酒豪と呼ばれるような人が多かった。 私は酒はちょこでほんの二〜三杯、どちらかといえば下戸、とてもおつきあい出来ず、 閉口したことをよく覚えている。夜の部はもっぱら時沢君に頼んだ。 何はともあれ、第一線から引退したあと、今日に至るも、日本経済新聞の正月三日の株式相場見通しには 毎年登場させて頂いているようなわけである。 次へ |
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