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第2話 貧乏暮らし考えてみると、私の相場好きは、まぎれも無く、祖父からうけついだものである。隔世遺伝とも言えるだろう。といっても、百姓のままでいたら一生相場の味を知ることなく 終わってしまったかもしれない。 だが、運命は私を百姓から相場の世界へと導いてくれたのである。 きっかけは借金と農村不況であった。 私の生まれ故郷は群馬県北甘楽郡岩平村大字坂口(現在の多野郡吉井町)である。 今をときめく福田赳夫、中曽根康弘両先生の選挙区でもある。 坂口という名が示すとおり、ちょうど山の中腹のようなところで、 どこの家の入口も坂を上がるか、下がるといった場所だ。 昔から私の家は本家、本家といわれていたが、一方の坂をのぼりつめた奥にあった。 百姓といっても、田んぼは少なく、畠と半々ぐらいで,水稲,陸稲、それに芋や大根などの 野菜の栽培が主で、あとは山仕事が百姓の仕事だった。そして収入の大半は養蚕であった。 同じ農村でも決して豊かなところとは言えなかった。 そうした中で,私はただただ働くほかはなかったのである。たまたま身体が大きかった こともあって、野良仕事はそう辛くも感じなかったが、なにせ十か十一かの遊び盛りの時である。 逃げ出したくなることも再三あった。 十二、三の頃は大人に混じって道普請にも出た。しかし、働けど、働けどである。 道普請に行ったとて、大の男で一日四十銭という相場の頃だから、 借金を背負ってどうにもなるものではない。 いつしか、何とかしなくては、ガンバラなくっちゃとの強い気持ちが子供の胸に 大きく育ちはじめていった。 そして高等小学校を卒業するや、東京へ出る事になったのである。私の学校時代は 小学校から高等小学校までの八年間しかない。通ったのは岩平村小学校、 思い出と言えば、火事になって一時,お寺で授業を受けたことぐらいである。 ケンカ好きで成績は決してよい方ではなかった。ろくろく出席する事も出来なかったし、 無理もない。たまたま,卒業した年、明治四十年は前年が米が不作であったのにくわえ、 日露戦争後の恐慌にぶつかり、ひどい状態だった。ランプのホヤ掃除をしながら、 灯油も十分に買えぬ生活にくやし涙がこぼれた。 次へ |
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