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第20話 二・二六で当てる店も住居も立派に出来た。そこで、新東へ売りつないだ。もし、ここで一転、不景気になれば、早まって高いものを作ったことになるからだ。新東は株式市場の指標株である。 景気が悪くなれば、いち早く値下がりする。つなぎ売りしておけばその利益で、 高い買いものをしていても、その埋め合わせも出来る。 もちろん、それだけの理由ではない。実際に、新東も、その親である東株の実株ももっていた。 たしか、その頃新東を一千四百株、東株が四千百株ほどあった。 その他、紡績や鉄鋼株など雑株の手持ちも結構多かった。 保険つなぎが必要である。ただつなぐ場合、もっとも採算的に割高な人気株につなぐのが効率的だ。 それが新東であった。 さて、実際の相場の方はいぜん力強い上昇ぶりをみせていた。そして、この年の十月、 イタリアとエチオピアが戦争状態に入ったのをキッカケに相場は一段高となった。 「戦争は買い」というわけである。しかし、私にはどうも理解しがたかった。 日本から遠くはなれたアフリカで起きた植民地をめぐる戦争である。 とくに、日本の経済にプラスをもたらすはずもないのに、市場はこれを材料にはやしたてている。 諸株一斉高だ。私は新東と新鐘(鐘淵紡績新株式、二十五円払い込み)を中心に売りはじめた。 手持ちの雑株、そして新築のビルと自宅という資産の保険つなぎとして売りつないだのである。 新東は百三十円前後から、ぐんぐん上げて、翌十一年にかけ百七十〜百八十円、 新鐘の方も百十円あたりから百十円台へと次第に騰勢を強めていった。 こちらの見通しからすれば、とっくに天井を打って反落してよいところだ。 ところが、相場の方はおかまいなしにずんずん上がる。こうなってくると、自分の資金にも限度がある。 必ず反落まちがいなしとの信念をもっていても、無限に売り上がるわけにはいかないし、 追い証はかかてくるで、さすがの私も窮地に追いこまれた。 売りの山種である。こんな場面は一度や二度ではあるまいし、馴れているから大したこともないだろう、 と思う人があるかも知れない。どうして、どうして、何べん経験しても、こんな時の気分は決していいものじゃない。 ジリジリ、イライラする。不安感におそわれることもある。血の小便が出る。 ことのはじまりが、店から住まいまで、大金をつぎこんで作ったことにある。 やはり、分をすぎてしまったのでは……と思ったりした。 だが、悔やんでみても、今さらどうにもなるわけではない。 営業の責任者であった上西康之君とともに浜町の料理屋”菊水”へ出かけた。 メシを食べながら、あれこれ打開策を相談しようというのである。 といって、ここまで来ては、もはや良い思案が浮かぶはずもなかった。 結論は「撤退するほかに道なし」であった。「もともと裸ではじまったのだから、あらためて、出直せばいい」 というきれいサッパリしたものである。一種のあきらめも手伝っていた。 二月二十四日のことであった。翌二十五日には売り玉の買い戻しにかかった。 その晩、新潟の米相場の大手であり、おなじみの、幸田慶三郎さんが、東京に出てきて私の家に泊っていた。 あくれば二十六日、早朝から雪がちらついていた。 この年は雪が多かった。二月はじめに、五十年ぶりという豪雪がふり、二十三日にも、再び大雪に見舞われた。 余談はさておき、この日の未明、二・二六事件が発生した。いち早く、七時にはニュースが入ってきた。 前夜からのお客、幸田さんは新潟に定時電話(地方電話は申し込み制で、前日に予約しておくことが多かった)を 申しこんでいた。当時の新潟取引所は東京より立会開始が十分ほど早かった。 まだ、二・二六事件の大変事の詳細は伝わっていなかった。気配がたった。それっとばかりに売った。 前日に買い戻した分はもちろんのこと、あらためて売りまくった。 情勢は一変したのである。もはや、何も心配はいらない。 そうしておいて、兜町の店へと出かけたのである。どんなぐあいになっているのか、偵察の意味もあった。 三番町の自宅を出て、竹橋へと抜ける道を自動車で行くと、左手に連隊があるところで、 停止を命ぜられた。あたりはものものしい。将校二人が乗せろという。断るわけにはいかない。 そこで、言われるとおり、赤坂の連隊まで連れていった。そのあと、三宅坂を下って、 宮城のお堀端にまでくると、銃が林立し、機関銃も据えられている。 これは大変なことになったと思いながら日比谷を回って兜町についた。 青年将校を中心とする反乱軍によるクーデターである。五・一五事件以上のただならぬ気配。 株式取引所はとりあえず立会の開始を午後一時まで延ばした。 だが、騒ぎは大きくなるばかり。とうとう立会休止ときまった。店には早くから店員がやってきていたが、 一体どうなることか、とても仕事どころではない。こんなことはそう何べんも起きることではないので、 勉強の意味もあって、交替で店員を現場近くまで見にやったりした。 三日ほどで反乱軍は鎮圧された。しかし、取り引きはいぜん再開できなかった。 三月三日になり、取引員の臨時総会が開かれた。とにかく商いも多く、 建て玉の多い短期の新東、新鐘、日本産業、東京電灯の四銘柄については 建て玉の半数を強制解け合いすることにきまった。解け合い値段は新東は百五十五円、 新鐘百五十三円、日本産業七十三円五十銭、東京電灯六十二円五十銭だった。 この値段は売り方としてはいささか不満だったが、きまったものは仕方がない。 三月十日になって、ようやく市場は再開された。まず新東だが寄付から売り物殺到で 気配はどんどん切り下げられて行く。しかし、なかなか寄り付かない。売り一色である。 私はここで、買い物を入れた。一たん、寄り付かなくては話にならない。やっと、百四十六円にはじまった。 やや落ちついて、六円十銭まで戻った。買い戻しやら、値ぼれの買いも入ったからだ。 そこへ、あらためて、売りを浴びせた。これであっさり百四十円台を割りこんだ。 この日は怒号うずまく中での大商い、午前中だけで百万株をこえる新記録となった。 とても整理がつかないので、午後の立会は休止せざるをえなかった。 新内閣の馬場蔵相は高橋是清前蔵相の財政政策を修正、 増税と経済の統制を強化するとの声明を発表した。 このおかげで相場は立ち直るどころか、連日坂をころげるように下げていった。 三月の下旬になり、ようやく底を入れたが、新東は百二十円スレスレまで売りこまれた。 この間に、すべての売り玉を手仕舞いするとともに買い越しに転じた。 恐慌相場ではとかく下げすぎが起こるものである。 そのあと、思ったとおり相場は戻った。急落後の反騰、定石どおりの動きをみせた。 ここで、買いこした分を利食った。徹底した戦いであった。 なだれを打って敗走する敵をハサミ打ちするようなことになった。 買いで負けると、すっかり弱気になり、戻るのを待ち切れずに売って出て、損を重ねるというのは、 昔からもよくみられる例であった。 この当時の相場は、”売り”か”買い”か、引き分けなしの真剣勝負であった。 相手を倒さねば自分が血を流すことになる。 それは、あまりにも凄惨な世界であった。とても耐え切れぬような緊張の毎日でもあった。 まさに、シマと呼ばれ、相場師の戦場にふさわしい別世界であることを今さらのように感じたのである。 もし、自分が敗れていたらと思うとなおさらであった。この時の利益は五百万円にも達した。 勝てば勝ったで、やっかむ人も多く、ねたみ、そねみはつきものだった。 表面上、私がすんなりと勝ち戦をおさめたとみた人達の間からは 「山種は二・二六事件を起こした反乱軍と一脈通じている」とのうわさが飛んだ。 あわや負け戦になりかけるところまで追い込まれ、国家的突発事件で救われた私にしてみれば、 根も葉もないこと、実に苦々しい話である。 ところが、それから間もなくのこと、ある日憲兵が二人やってきた。 腕には白地に赤で憲兵と書いた腕章をまき、腰には拳銃を帯びている。 「憲兵隊まで来い」という。理由などきこうものなら、どやされそうな勢いだし、そのまま連行された。 自分としては、まったくやましいところはない。だが、どうなるのか、一抹の不安もあった。 憲兵隊長の前に立った時には緊張して思わず手を握りしめていた。体がふるえた。 すると、机の上にどさっと手紙をおき、「これは投書だ。君は反乱軍と関係があるんだろう。 投書によると、久原房之助に融資していたというではないか。 久原は反乱軍の関係者をかくまっておる。一体どうなんだ」ときめつけられた。 そこで、私は久原さんとのそもそもの関係を説明した。これより二年ほど前、昭和九年の夏、 久原さんの振り出した手形が回り回って私のところへきた。久原さんは久原鉱業をおこし、 日立の基礎を作られた方、その名はつとに知られており、安心して受けとったところ、 この手形は期日が来たのに落ちなかった。 ちょうど夏のこと、千葉県の飯岡に避暑に行っていた。そこへ、久原さんがわざわざ訪ねてこられた。 そして、手形の延期の言いわけをされたのである。当時の金で三十万円という大金で、 今の金にすれば億をこえる。だが、私はあえて承知した。 久原さんとはそれ以来のつきあい、つながりであった。まったくの商取り引きである。それ以外何の関係もなかった。 また、売り玉は昨日、今日に建てたものではなく、一年以上も前からとった作戦にもとづいたものだった。 そのことを一生懸命こまごまと手をとるように説明した。久原さんとの関係は一応わかってもらえたが、 相場の方は専門的なことでもあるし、なんとも納得出来ない様子、 その晩は憲兵隊に泊めおかれた。大丈夫との自信はあったものの、神経はたかぶりよくねむれなかった。 翌日、とにかく帰してくれたが、帳簿の取り調べがはじまった。 店の売買は記帳と取引所の日記帳を一週間がかりで照合した結果、疑いはすっかりはれた。 次へ |
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