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第21話 筆禍事件二・二六事件でもうけたあと、つい調子に乗って失敗をやらかしてしまった。二・二六事件の直後、夏場のことである。ようやくごたごたもかたづいて、相場も落ちつき、戻ったところだった。 大体、兜町というところは上げ賛成で、人気に走りすぎるきらいがある。額面は五十円だが 十三円五十銭払い込みの新東が百五十円前後、払い込みの十倍以上していた。高すぎる。 ぜんぜん採算のとれぬ株だ。まったくの人気だけで動いている。 私のソロバンからみるといつも危い株だと思っていた。だから何かきっかけがあると暴落してしまう。 ちょうど二・二六事件で自信をもっただけに、自分のところで発行していたレポートに ”新東百円詣り”という題をつけて、新東の株価は百円がいいところだ、と書いたのである。 そして、同時に自分でも売って出た。これがまた、相場が一たん反騰したあとで、 タイミングがよく見事図に当たった。 そこまではよかった。だが、あとがよくない。一ヶ月ほど営業停止になってしまった。 今のようにきびしい証券取引法があったわけでもない。相場観について何を言おうと自由な時代である。 法にふれることもしてないし、監督官庁からお叱りをうけたのでもなかった。 一口で言うと、業界からしめ出しをくったのである。村八分にされたのであった。 もともと私は蛎殻町、米屋から兜町に進出した、いわば”場ちがい筋”であった。 それが兜町の御神体ともいうべき新東、それも大事なメシの種であった新東を売り叩き、 もうけたのだから総スカンにされたのも無理はなかった。なにしろ、新東、東株の二銘柄の商いが 全取り引きの二割をこえる年もあったのである。 蛎殻町から兜町に出てから、わずか一年、短期の清算取り引きでは山文についで二番、 長期でもベストテンに入った。そして、二・二六事件のあとでは、長・短ともに業界で二番に上がっていた。 すでに常日頃、場ちがい筋のくせに生意気だと憎まれていたのである。 こうなってはやむをえぬ。兜町の長老をはじめ主な方の自宅を一軒一軒回って歩き、お詫びした。 話は簡単ではなかった。 店の者が行くと、玄関払い、ケンもホロロの扱いだという。そんな時、支配人の時沢君が 「もはや委員長(一般取引員組合、今の証券業協会)にぶつかって、頼む以外にないでしょう」 と出かけて行った。常務取締役の肩書きながら年はまだ三十二歳、 丸坊主であったから、先方も最初は若僧が……と思ったらしいが、店全体を思うその熱意に動かされたようで、 急遽、解決のはこびとなった。 この時の委員長は山二の片岡辰次郎さんであった。 片岡さんは「相場は相場、山種は堂々ともうけたのだから、それはそれでいいだろう。 だがなあ、ここに池があって鯉が百匹いたとする。そして釣っている人は八十人としよう。 その中の一人が腕がいいんで五十匹も、六十匹も釣り上げちゃった。あとはどうなるんだい。 獲物なしの人が多勢出てきちゃうじゃないか。皆は一体どんな気持ちになるだろうか。そこを考えなさいよ。 これからもあることだからね……」と言ったという。この話は身にしみた。 同じ蛎殻町出身の鈴木由郎さんのとりなしも頂いたおかげもあって、やっと何とか許してもらえた。 私のような文才のないものがおこした、あとにも先にも、一回かぎりの”筆禍事件”だった。 もっとも、文章そのものは野田経済所長に書いてもらったものだったが……。 しかし、時を同じくして、東京朝日新聞が取引所改組の報を出し、新東、東株などの人気株が暴落、 立会停止となる事件がおきた。これには、私もおどろかされた。結局は誤報だったが、 政策当局の底流に取引所改組の考えが生まれつつあったのは事実だったようだ。 戦争の気分はますます強まり、”非常時”という言葉がひんぱんに使われはじめたのもこの頃からである。 この頃、勉強のために、経済関係の評論家の先生方においで頂き、話を聞いたりした。 私は実戦派であり、もっぱら経験をもとに相場を張ってきた。商売は先代山繁さんに叩きこまれたやり方を柱に、 自分なりの工夫をとり入れたものである。それで、十分に成功をおさめてきた。別に問題はなかった。 しかし、時代は動く。これまで農業中心だった日本経済は、軽工業から重工業の発展期に入り、 工業国家としての地盤を固めて、造船や機械、自動車、航空機などの産業がどんどん伸びはじめていた。 勉強は絶対に必要である。だが、本を読むのは大変だ。人の話なら解りやすい。 たまたま経済関係の雑誌をやっているダイヤモンド社の石山賢吉さんとも知りあうことが出来た。 景気の見通しはもちろんのこと、会社の業績をどうみるかなど、 工場見学にも一緒につれて行ってもらい、急所を教えてもらった。 米相場を張る上では田んぼをみたり、天気予報を研究したりする。株の相場を張る上では 会社を研究するのを欠かすことは出来ない。そういう意味で実に助かった。 石山先生とはその後ずっとおつきあいを頂いた。太平洋戦争がはじまる前の昭和十四年頃には 石油が統制になるというので、石山先生を顧問に、三和石油という石油の採掘会社を一緒にやったこともあった。 石山先生のお話の中で、とくに印象に残っているのは、托鉢する禅僧の話だった。 禅僧はお布施を集めて歩くとき「お椀の中に落とされた一厘銭のチャリーンというひびきに、 何とも言えぬ楽しさを感ずるのだそうだ」というのである。 これは私のお金は楽しみながら貯めるものとの考えに一脈通じていたからだ。 昔から店のものには”蓄積第一”と口がすっぱくなるように言ってきた。ところがまじめに金を貯めるのは 大変な苦痛だと誰も彼もが言う。もちろん、それなりにがまんとか、強い意思が必要なのは当たり前だ。 しかし、それをすぎればあとはぐっと楽になるのを知らないだけである。 胸つき八丁をすぎれば貯蓄マラソンも勝利者になれること間違いない。 次へ |
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