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第22話 日活株大仕手戦日本活動写真(日活)の株式買い占めをめぐる戦いも印象に残る事件だった。私がこれに一枚加わることになったのは、堀久作さんと知りあったのがキッカケである。それも、 麹町三番町に住まいを建て、引越したところ、たまたま堀さんの邸も近くにあり、近所のよしみで懇意になった。 堀さんは日活に入り専務になったが、このころ日活は業績不振で無配、内容も悪化していた。 昭和十年の秋だったと思う。当然のようにうわさは次第にひろがり、株は売り叩かれた。株価は三十円台から 二十円台へと下げて行った。こうなると、長期清算取り引きの先限は先安を見こんでの売りが重なり、 一段と下げるというぐあいで、さすがの堀さんも困った。日活は危ないらしい、といった話がささやかれる。 このままでは、立ち直れるものまでダメになってしまう。まず、株式市場から手をつけねばならないというので、 堀さんは私に話をもちかけてきた。 「日活の株を買ってもらいたい。値下がりのひどい先限を買っておいて、これが決裁月に回ってきたら 現物を引きとる。もし、それまでのところで株価が上がって利食い出来るようなら、 売ってその利益を半々にしよう」というのである。私にしてみればうまい話だ。注文はもらえるし、 手数料を頂戴した上に、場合によれば差益も入る。 問題は秘密を守ることと、受け代金さえもらえばよいわけだ。値を上げて買う必要はなく、 狙いは株を沢山集めることにある。 日活の当時の資本金は八百万円、発行株数は十六万株だった。静かに、しかも根強く買いつづけた。 二年がかりで、六万株ほど買った。しかし、この間に日活の業績は一向に芳しくなく、 十五万円の借金のカタに上野、両国などの映画館を競売される寸前までに追いこまれるという苦しさだった。 この時は米相場の大手、田中貞二の肩代わりでやっと切り抜けた。 こんな状態だから売りものはいくらでも出てくる。堀さんの資金も不足してきた。そこで、のりかけた話でもあり、 私は金融面も引きうけることにした。私の資金を出すとともに、千葉銀行にも、うけもってもらった。 そこで、買い付けの状況を報告するため、千葉銀行へ一日おきに通うことになった。 堀さんの乗用車クライスラーに乗りこんで、千葉街道を往復したのである。 これをきっかけに千葉銀行頭取の古荘さんとも近づきになれた。 ところが、一応株集めのメドがついたころに、松竹の大谷竹次郎さんからも「日活の株を買って欲しい」との 注文をうけた。実に妙なことになった。当の会社側と乗っ取り側との両方から注文をもらったのである。 私としてはどちらの味方になろうというのでもない。着実に注文さえ執行すればよいわけだ。 何も断る理由はないと思ったので堀さんには一言も言わずに大谷さんの話を承諾した。 たしか、昭和十三年のことだった。 堀さんはこのころ、東宝の小林一三さんからも株集めの資金を借りていた。日活を守るため、 東宝を背景に松竹と争ったのである。堀さんとしては「大谷さんだけには日活を渡さない」といって、 兜町だけではなく、大阪の北浜、名古屋の伊勢町でも買って買って買いまくった。 これに売り向かったのが各地の地場筋だった。取引所をとりまく投機家の一群である。 誰が買い本尊なのか、そしてそのバックは誰なのかは一向にわからない。それに、日活では一時、 当局に帳簿を押収されたことから決算発表さえも行われなかったので、 業績の悪さについて、疑惑に疑惑を呼んでいた。売りたくなるのも当然であった。 株価の方はいつも間にか、百円台へ、そして百二十円まではね上がった。 買いはじめた頃は十四円にすぎなかったのである。売り方はまったくの窮地に立った。 買い方は株集めである。利食いの売りも出てこない。踏もうとしても売りものなしだ。 堀さんが買い集めた株数は最終的に八万株をこえ、筆頭株主の地位におさまっていた。 売り方はついに解け合いを申し入れた。しかし、堀さんはガンとして応じなかった。 所要で大阪へ行ったところ自動車に硫酸をぶっかけるぞと、おどされたこともあったという。 結局、兜町以外の各地で買った分については解け合いをしたものの、東京、兜町で取り引きされた方は 何としても株を引き取るといって頑張った。「外国へ行くと、日本からの通信を日本電報といわず、 ”東京”電報というと聞いている。その日本を代表する東京、兜町が売買を成立させておいて、 株がありませんとは何ごとか。あげくの果てに解け合いにしてくれないと、 日活の将来のためにならないと言うに至っては許せない」とタンカを切ったそうである。 堀さんは大勝利をおさめた。ところがこれをきっかけに日活の株式は上場廃止となってしまった。 なお、日本活動写真が松竹大谷さんと東宝小林さんの支配下を脱却し、日活として名実ともに独立したのは、 太平洋戦争をへて、昭和二十二年のことになる。 それはとにかくこの時の相場では、堀さんの他に丸荘の林さんが買い大手として儲けた。 林さんは関東大震災あとの復興景気に乗って大当たりし、一挙にのしてきた人である。 私も株集めの両者から注文をもらったおかげで、手数料は頂くし、相乗りしたのでその儲けもあり、 結局三十万円ほどがフトコロに入った。 のちに、堀さんは私が敵方である大谷さんの注文をもたっていたことを知り、 「君は一体どちらの味方なんだ」となじった。私は「相手がどなたであろうと、 注文をもらえば商売させて頂きます。それが、ブローカーです」と答えた。 ここで、ケンカになっても不思議はないが、そこは堀さんである。 「いろいろやっかいになった」とお礼さえ言われた。 出来そうで出来ない話である。私はあらためて、大した人だと感じた。 忘れもしない昭和十四年の十月十四日、ついに病気にやられた。生まれてはじめて、 病気らしい病気にかかり、神田の神尾病院に入院したのである。猛烈に耳の奥が痛い。 寝床の横を人が歩いてもとび上がるほどの痛さだった。先生の診断は結局、中耳炎という話だったが、 最初の頃病名もハッキリしなかった。夜になり、家内もウチに帰り、 となりの部屋につきそいで泊っていた店員も寝てしまうと、あれこれ悪いことばかりを次から次へと想像した。 さびしさと痛みが交互に私をおそった。 痛みもやや和らいできた頃、ある夜、ふとガンではないかと思った。 まさか、いや、ひょっとしたらそうかもしれない。一刻ほど頭の中がゴチャゴチャした。 翌日から、イライラが激しくなり、つきそいのものを新聞が届いていないとか、 戸の開け閉めひとつにも叱りとばした。 そのうち、親友の加藤兵八さんが見舞いにやってきた。面会謝絶だったがぜひあいたいからと 院長に頼んだのである。あとで聞いたのだが、危ないかもしれないというので 院長がとくに面会を許してくれたものだった。 思わず涙が溢れた。最悪のことも考え、加藤さんには仕事のことから、こみいった個人的なことまで、 いろいろとお願いした。無口な加藤さんはいちいちうなずきながら「何も心配しないで、 とにかく一日も早く元気になって下さいよ」と言って帰っていった。何となくほっとした。気持ちも落ちついた。 家内にも一応、万が一の場合財産のことをどうするかと、それとなく遠回しに話すと 「私には子供達の教育費の分だけ残して下さい。あとは仕事のために会社に……」と答えた。 この時ほど家内が心強く思えたことはなかった。 私ももはや数え年で四十六歳、あるいは寿命がきたのかとも感じた。 たまたまこの年の春、米穀配給統制法が成立し、十月には深川の正米市場も蛎殻町の清算市場も 閉鎖されてしまった。戦争は拡大の一途を辿り、いよいよキナくさくなっていた。 まだ、兜町が残っているとはいえ、私の生命とも言うべき米の仕事がなくなった今、 年貢のおさめ時かもしれない。 力のあるかぎり、馬車馬のように走りつづけてきた私、相場の上では勝つために徹底的に闘ってきた私、 その結果残されたものは何なのだろう。 追いつめられた病いの床で、これまでの人生をあらためてふり返ってみた。 あまりにも、あまりにも突き進みすぎたのではなかろうか。相場の相手方も、 そして私の身の回りの人もまきこんで……。 幸いに病は癒えた。これをさかいに、私の持ち前だった冷酷なまでのきびしさも、 いつしか和らいでいった。年中ピリピリしていた周囲の人、とくに店のもの達は、ほっとしたという。 病気という先生に教えられたことが多かった。 次へ |
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