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第24話 焼け跡からの出発

  昭和二十年の八月、とうとう日本は戦争に敗けた。やっぱりダメだったか。日本人としてさすがに
くやし涙がこぼれた。もちろん、戦局が日ましに不利となり、降伏する日も近い、といった情報は
かなり前から聞こえてきてはいたし、ある程度覚悟もしていた。
その時は空襲で麹町三番町の家は焼かれてしまったので、代々木上原にあった女婿
今井善衛の家にころがりこんでいた。今の自宅のすぐ隣である。

  何しろ、家は焼け、その上群馬に疎開させるために一時、中野にある社員のところに
集めていた荷物まで四月十三日の空襲で焼失してしまい、きれいさっぱり身がるだった。
もっとも、ここまでの状態なら、関東大震災の時と同じである。命さえあればあとは何とか出来る。
焼け跡に立った時、ふと思った。土地を買っておいたらよいのではないか、と。

みんな東京から逃げ出してしまい、土地の売り物はたくさんあった。大体、誰もが虚脱状態で、
将来のことなど考えてもいなかった。しかし、いずれ東京には人が帰ってくるはずである。
ところが、こんどは日本全体がどうなるか分からない。外国から占領軍がやってくるのだ。
日本にとっては開闢以来のこと、誰に聞いてもハッキリしたことが掴めなかった。
こうなれば、ジッと事の成り行きをみている他はない。

  さて、そうはいっても食べていかなくてはならないわけだ。株の取り引きは完全に止まっているし、
従業員はほとんど兵隊にとられ年寄りばかり二、三人しか残っていなかった。メシのタネもない。
だが、人間よくしたもので、いざとなれば、知恵もうまれてくる。とりあえず、ヤミ屋がはじまった。
当時、隠退蔵物資と呼ばれた配給ルートに乗らない衣料品や食料品の売買である。
まことに、聞こえの悪い話だが、次第に社員も戦地から復員してくるし、とにかく背にハラは代えられず、
はじめたのである。幸い本社ビルは焼け残ったので、この地下室を使って、取り引きをした。

これで、利ザヤを稼ぎ、何とか食いつないだ。本社ビルの空いている部屋も貸した。
店子の中にはのちに大蔵大臣となられた向井忠晴さんもおられた。その時向井さんが使われた椅子が
つい最近まで残っていたことを覚えている。それから、宝くじやスピードくじの販売もやった。
街角でオバさんが売っているアレである。店先にはスピードくじの賞品が積んであるという有様。
もちろん、その手数料などはたかが知れたものだった。しかし、何でもいいからもうけになるものなら
何でもやったのである。そのうち、ボツボツ株の売買がはじまった。

  といっても、市場が開かれているのではないから、それぞれ業者の店頭での取り引きである。
結構、売り手も買い手もあった。だが、気配は区々で、値開きも大きかったから、サヤトリも出来た。
私は荒廃しきった、そして、食べ物さえ十分でない混乱した中で、株の取り引きがはじまったのをみて、
資本主義経済という体制のもとでいかに株式売買が必要不可欠のものかを思い知らされたのである。
こうして、次第に店頭取り引きが大きくなり、集団売買と呼ばれる市場へと発展していった。
市場といっても肝心の取引所の建物はアメリカ占領軍によって占拠されていたので使えない。
やむをえず、日証館の中に仮の取引所が出来上がった。正規の取引所ではないから、
いわばヤミ取引所である。しかし、狙いは公正な値段で取り引きを行ない、決裁もきちんとしようと
いうところにあった。形はヤミでも、内容は違う。経済界が混乱し、あらゆる商品にヤミ値がついていた時代に、
株だけは一本値の正しい取り引きが行われるようになったことは特筆してよいだろう。

  ところで、終戦の翌年、預金封鎖、新円の切りかえが行われた。
同時に、財産税もとられた。何しろ、丸焼けになり、裸同然になってしまったあとのことだから、
財産というほどのものも残っていなかった。しかし、手持ちの株もあり、絵も疎開してあったので、
やっぱりかなりの税金を納めなければならなかった。現金はなかった。そこで、やむをえなかったが、
横山大観や橋本雅邦の絵なども相当手放した。あとになって買い戻したものもあったが、
何としても手放すには惜しい気がした。
もっとも、財産が十万円以上の人はみんな財産税をとられるというきびしいものだったから、あきらめた。

 それはさておき、証券界の首脳部の人達が一せいに警視庁にひっぱられ、
牢屋にぶち込まれる事件がおきた。私の店でも経理担当の責任者をはじめ、
四人ほどつれていかれてしまった。それは、こんなわけだった。銀行預金はすべて封鎖されてしまい、
自由に引き出して使うことが出来なくなっていたが、財産税を支払う以外に、株を買う場合にかぎっては、
いくらでも引き出せたのである。その上、一たん封鎖預金で買った株を売ると、
新円にかえることが出来た。ただし、新円で売る場合には、ざっと二割引きの相場であった。

つまり、株の相場は新旧二本立てとなっていた。それにしても、うまい抜け道である。
ほとんど使えない封鎖預金が生きるわけだから、預金の沢山あった人にはこたえられない話だった。
二割引ぐらい何でもない。世は猛烈なインフレ時代、新円さえあれば、金もうけの口はいくらでもあったからである。
封鎖される前に、こまめに封鎖の対象にならない小額のオサツやコインをかき集め、
うまく逃れた人もいたことにはいたが、この方法では限度があった。
とても、大きな額は集まらない。当然のことながら、株の売買に人気が集中した。
この場合、証券会社の買付報告書さえあればいとも簡単に銀行や郵便局で封鎖預金が下ろせた。
そこで、証券会社がほんとうに株を買う人でなく、単に封鎖預金を新円にかえようとする人のために、
カラの報告書を乱発したのではないか、との疑いがかかったのである。
勅令違反ということで兜町に警察の手が入った。

野村證券の瀬川さん、沢村さん、増田さんをはじめ証券界の首脳部が次々に呼びつけられ、
拘留されてしまった。さあ大変だ。業界をあげて釈放に努力した。
たしかに一部で違反に近いような事が行われていた。しかし、それはほんの少しのことで、
大部分は正常な取り引きであった。結局、長い人で二十日前後とめられたが、
全員無罪放免となって落着した。戦後の混乱期に生まれた、とんだ一幕であった。

  新円切りかえにからんでこんな事件までおきていたのに多くの一般の人達はどうしたらよいか分からず、
困っていた。封鎖されてしまった預金をうまく活用するすべを知らなかったからである。
まして、画家の先生方はそうだった。元来、経済的なことには関心をもたない人が多かった。
たまたま、大観先生のお宅に伺うと、奥さんにどうしたものかと相談をもちかけられた。
主人は、おれは絵だけ書いていればいいんだと言っているだけです、というわけだ。

そこで、私は封鎖預金で株式を買うようにおすすめした。ただし、相場を張ってもらうのとはちがう。
多少なりとも、株式投資に経験のある方ならいざ知らず、およそ経済界には縁のないような方に、
株をすすめ、万が一にも損をかけるようなことがあってはならないからだ。ご本人にも納得して頂ける、
しかも、うまくもうかりそうなものを選ばなければならない。大観先生は人も知るお酒好き、
”酔心”とはいかないが、その代わりにショウチュウの宝酒造を、奥様はお勝手を預かっておられるから
野田醤油(キッコーマン)を、そして生活用品を扱う三越、この三つを選びだしてみた。
奥さんは何でもおまかせしますとのこと、早速買っておいた。買ってから一年ほどすると、
倍以上、二年たつと三銘柄とも四倍から五倍にも値上がりしていた。
その利益で、先生は上野池之端に新しく家を建てられた。これには、先生もずいぶん喜ばれた。

  大観先生と私の間は、単に画家と美術愛好家のそれをこえていたように思う。
先生はあるとき私にズバリこう言われた。「金もうけされるのも結構だが、このへんでひとつ
世の中のためになるようなこともやっておいたらどうですか」と。
この言葉がのち山種美術館を作る動機になったのである。

 話を株式市場へ戻そう。集団売買が次第に盛況をみせるようになった頃、株式の入札がはじまった。
戦後、GHQの方針によって解体された財閥の持株や財産税で物納された株式は一たん凍結されていた。
それが入札形式で放出されたのである。財閥に集中していた株を広く一般の人に
分散するというのが狙いであった。証券民主化運動の一環でもあった。
CILC、SCLCなどと呼ばれた凍結株処理機関を通じ、財閥系中心の有力会社の株式が
次から次へと公開入札に付されていった。そのトップを切ったのは東宝と私鉄三社であった。
二十二年の秋のことである。これは商売になる。集団売買でたっている気配をみて、
ソロバンをはじき、応札した。うまく安価で落とせば、サヤをとって売れる。
入札代金さえ豊富にあれば文句なしにもうかる。もちろん、売れ残ってしまってはまずい。

ところが、うまいぐあいに、買い手はあった。地方の財産家などを中心に結構お金をもっている人が
いたのである。それに各財閥では解体されたとはいえ、そのまま株式が散ってしまっては
えらいことだと考え、何とか食いとめるべく手を回していた。
これなら落札した株を売りさばくのはいとも簡単だ。そこで積極的に入札した。
なかでも泉不動産(現住友不動産)の時は全量落とした。何しろ発行株の八割に及ぶ。
あたふたと泉不動産の責任者がかけこんできた。名刺をみると、総務部次長田中ナニガシとある。
用件を聞いてみると、私の方で落札した株を何とか譲ってほしいというのである。
住友銀行からも堀田さん、百瀬さんを通じ重ねて熱心な依頼があった。こちらにしてみれば、
ソロバンになればよいわけだから、結局お譲りすることにした。この時の総務部次長が、
有名な小説家、源氏鶏太その人だった。これに似た例は、住友不動産以外にもずい分あった。

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