ブログ

あるけみ掲示板

PR




第25話 旭硝子事件顛末記

  終戦から数えて四年、ようやくのことで証券取引所が再開された。一日でも早く、と願い、
待ちに待った日である。GHQの将軍をはじめ池田大蔵大臣や一万田日銀総裁を迎え、
開所式が行われた。立会場一杯に鳴りひびく手じめの音を久しぶりに聞いた。
硝子ばりの大天井を見あげながら涙のこぼれるほど嬉しかった。

  今日から、天下晴れて自由な相場をこなすことが出来るのだ。ところが、すべりだしはよかったが
長つづきせず、株価は次第に冴えない動きになっていった。戦後の悪性インフレを退治してしまおうという
狙いで採られた超均衡財政、例のドッジ・ラインのおかげで猛烈なデフレの嵐が吹きまくったからである。
その上、為替でそれまでの複数レートが一ドル三百六十円の単一為替レートになった。

今から考えてみると戦後の「円切り上げ」第一号であった。これではたまったものではない。
やっとのことで立ち上がりかけたばかりの産業界はがっくりきた。それに、株式市場そのものにも問題があった。
というのは、戦前に株式市場の商いで圧倒的な地位を占めていた長期、短期の清算取り引きが
なくなってしまったからである。何しろ、全体の商いの八割から九割近くにも達していた清算取り引きが
廃止されたままだった。証券取引所が再開されるにあたっては、ほとんどの証券業者は
当然に清算取り引きが戦前同様行われるものとばかり思っていた。
ところが、それはアメリカ占領軍司令部、GHQの認めるところとはならなかった。
もう、今の人達には説明しても納得してもらえまいが、当時、GHQは想像も出来ないほどの権力をもっていた。
敗戦国の悲哀である。くやしいが、結局アメリカの証券取引法とやらに則って、
「売買仕法三原則」なるもののもとに出発せざるをえなかった。

  三原則というのは、時間優先、取引所集中、そして先物取り引きつまり清算取り引きの禁止であった。
やむをえぬこととは言いながら、これでは勝手がちがう。取引所は再会されても、実際の商いの方は
調子もなかなか出なかった。現在のような信用取引制度が出来たのは、昭和二十六年である。
さて、そんな中で、集中排除法にもとづく企業再建計画により、次々に新しい会社が生まれた。
増資もじゃんじゃん行われていた。景気が悪く、業績の下り坂のところに、株があふれ出てくるのだから、
たまらなかった。その年の末には、早くも株価対策を必要とするような状態にまで追い込まれてしまったのである。
商いもぐっと細った。 こういう相場では買い方に勝ち目は薄く、売り方に歩があるのはいうまでもない。
そして、戦前、よくなれていた清算取り引きによく似た権利株の売買に、
皆が走ることになったのも、無理もない話だった。

  そんな動きの中で、とくに人気を呼んだのが、旭硝子、新光レイヨン、日本化成であり、
その他三菱地所の第二会社である陽和不動産、関東不動産、それに新設の日活国際会館などであった。
売り叩き大流行のまっただ中で、旭硝子が強力に買い上げられたことから、
予想もしない大仕手戦が展開されたのである。世に言う旭硝子事件だ。それは証券取引所が再開されて一年、
昭和二十五年の四月に起こった。 最後はどうにもならなくなって、解け合いという異常な方法により
やっと収拾されたのだが、その結果、東京証券業協会の全理事が責任をとって辞任する事態を
招くに至ってしまった。それで、旭硝子事件と呼ばれたのである。

  解け合いなんて、そうしょっちゅう起きるものではない。この時のように強制総解け合いなどというのは、
二・二六事件の時でもなかったし、昔も昔、大正十二年の関東大震災以来のものだった。
これは私が参加した仕手戦の中でも大きなものの一つであった。もちろん、この時も売りに回った。
そして、売り方の総大将と目されていたのであった。解け合いの時の決裁値段が非常に高く、
売り方に不利だったことから、こんどこそ、山種のやつも大損を出したらしいと言われた。
中には屋台骨も揺らいだといったうわささえあったが、私には私なりのソロバンがあり、
世上取沙汰されたほどの大損をしたわけではなかった。しかし新取引所のスタートからわずか一年にして
早々と相場に負けたのはいかにも悔しかった。

  さて、本題に入る前に、若干その当時の状況を説明しておかねばなるまい。
というのも現在の取り引きとは大分おもむきがちがうからである。仕手戦の対象となった株は、
実は未発行の権利株であった。旭硝子の新株券が出てくるまでの取り引きである。
当時は発行日決裁取り引きの制度も出来ていなかった。わずかな保証金を積むだけで売買が行なわれていた。
さて、二月二十日現在の旧三菱化成の株主に旭硝子一・九株、新光レイヨン〇・九株、
日本化成一・九株が割り当てられることが発表された。決裁は四月末である。
この間は証拠金にあたる受渡保証金さえ積めば自由に取り引きが出来る。待ってましたである。
買い方は最初山一証券、あとで玉塚、日興証券が加わり、ほぼ大手証券筋、
売り方は大阪の北浜あたりを筆頭に中小証券連合軍だった。買い方はどっしりと腰が据わったものであった。

  いくら売っても連日のようにどんどん買い上がる。はじめの頃は、それほど力があるようにも思えなかったが、
毎日毎日の買いっぷりから、次第に不気味なものを感ずるようになった。
どうも、値段が欲しいというのではなく、株が欲しいらしい。
売り方にとっては砂漠に水をまいているみたいなものになってきた。買い方はふつうの大手とはちがう。
用意された資金はどうみても巨額なものになるからである。うわさは乱れ飛んだ。
何しろ、現金を積んで株をどんどん引き取っていくという。

後日、この時の買い方の黒幕はどうやら三菱銀行を中心とする三菱グループだった、というのが定説である。
財閥解体はやむをえないとしても、株式が離散し、第三国人の手に渡ってしまうのを恐れ、
ひそかに手を回したものと言われている。第三国人説など今考えればややこっけいにも思えようが、
戦後の混乱期、そういううわさが兜町を中心として一般に流れていたのである。
真相は未だに謎につつまれており分からない。しかし、当たらずと言えども遠からずというところだろう。

  さて、株価はどんどん尻上がりに値をとばしていった。二百円台から三百円台へ、そして四百円台へと
次々に大台がわりを演じた。この間、私は売りつづけた。ちょうちんもついた。
しかし、私はただ単にカラ売りをしたわけではない。権利株三銘柄の合計値段が親株旧三菱化成の値段を
はるかに上回っていた。権利株はわずかの保証金で買えるので割高に買われたのである。
そこで、私は親株を買い、権利株を売る、いわゆるサヤトリからはじめたのであった。
しかも、東京と大阪、名古屋、新潟など全国市場の間でかなり値が開くことも多かった。
現在のように通信が便利でなかったのと、大阪、名古屋など各市場自体の商いが
きわめて活発であったからである。これまた、すかさずサヤを取った。
例えば、大阪で親株を買って、東京で権利株を売るのである。こうしたサヤトリは確実にもうけられる。
いくら権利株が値上がりしたところで、ちゃんと親株が手当てしてあるのだから何の心配もいらなかったのである。

  しかし、思惑でカラ売りした分もあった。決裁の日が近づくにつれ株価が激しく動き、
波乱の様相をみせてきた。四月十一日のことだった。
突如、乱手がふられ、四百十七円から三百五十円まで急落した。これで先が見えたと思った。
追撃売りをかける絶好の機会である。しかし、翌日には急反騰、四百五十二円まで買われるという大波乱となった。
私としても、一部買い戻しに出ざるをえなかったほどである。
そして、ついに新規売買を規制する緊急措置が発動されたのである。
山一の大神一さんを中心とする買い方のあまりにも強引な買いの前に、売り方は動揺した。
一斉に踏み上げ場面となり、五百三十一円という高値がついてしまった。大阪はついに売買停止である。

  もはや売り方は買い戻しも出来ない状態となっていた。カラ売りに対して現物買いでは、どうにもならない。
つい最近おきた中山製鋼所買い占め事件みたいなものだ。そして、混乱した事態を救うため、
売り、買い双方代表をたてて交渉することになった。この時の代表が買い方は山一の小池厚之助さん、
玉塚栄次郎さん、売り方は大阪の高橋要さん、そして私の二人ずつだった。
もみにもんだが、四月十八日、とうとう全国市場一本値段の五百十円で決裁するということで落着した。
GHQをはじめ、解け合いには反対だったが、他に方法もなかった。
純粋にカラ売りしていた人の損害は莫大なものにのぼった。

  百五十万株という当時としては大取り組みになっていたから、証券業者の中にも参ってしまったところもあり、
実際にきれいに片づくまで、かなり長い間ごたごたがつづいた。売り方は完全な総敗北であった。
二百円台ではじまった相場が五百十円での決裁である。当然だった。
しかし、親株と新株とでサヤトリしていた分は問題がない。それに、東京と地方市場との間で
サヤトリしていた分についても、全国一本値段での解け合いだったから被害は出なかった。
実は、交渉の時に売り方が全国一本値段を強く主張した理由はここにあった。
しかし、結局、私にとっては負け戦に終わった。思惑分のカラ売りで損を出さざるをえなかったのである。

次へ

Copyright(C)2005 Al-chemy All Rights Reserved