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第26話 山種米穀を設立そう、それは昭和二十五年、戦後の混乱期を通りすぎようとする頃だった。街ではまだ軍隊の雑のうや軍靴が結構ハバをきかしていたが、そろそろ敗戦のみじめさもうすれようとしていた。 お米の配給制度がとけて、民間に移管されるらしいとのニュースを聞いた。当時お米は、 GHQの管轄下にあり、食糧公団を通じて集荷、配給されていた。それが、民間の手に 委ねられるとなれば、問屋、卸しも必要になるし、昔なつかしいお米屋さんも復活するわけだ。 いよいよ出番である。私は早速、準備にとりかかることにした。 何はともあれ、その年、昭和二十五年の暮れもおしつまった十二月の二十六日、 資本金一千万円の”山種”米穀株式会社を設立した。 うわさによれば、卸商としては、小売のお米屋さんを百二十軒獲得すれば、認可されるらしいとの話だった。 翌日から、獲得運動を開始すべく、動くことにした。 お米が統制になってから、戦争をはさんで十年以上の年月がたっていた。配給所はあっても、 お米屋さんはない。しかし、昔お米屋さんだった人達は沢山いる。公団に勤めている人も多い。 もちろん、回米問屋時代のお得意先である。その古い名簿をひとつひとつひっくり返し、記憶を呼びおこし、 細谷君や早貸君、菅原君をはじめ幹部と一緒に手分けして、回ることにした。 再びお米屋さんをやろうという気持ちをもっている人、そして、”山種”の顧客になってもらえそうな人、 とくに、各地区の有力者から訪問をはじめた。私も、世田谷、東調布、玉川、本所などを中心に、 都内の全域を歩いた。有難いことに、みんな私を覚えていてくれて、暖かく迎えてもらった。 行く先き先きで懐古談に花が咲いた。 本所の片山松五郎さんをはじめ、東調布の池田宗三さん、玉川の木村照さんなど 肩入れしれくれることになった。 まず、第一回の登録、つまり民営のお米屋さんをやろうとする人の申告は、翌二十六年の一月十四日に 締め切られた。その数はざっと四千八百軒だった。この申告前までにやってきたことは 言わば事前運動である。これからが本格的な運動になる。この四千八百軒のお米屋さんのうち 取り引きしてもらうお店を何軒獲得出来るか、勝負である。 これが第二次の登録である。第一次登録から一ヶ月後、二月十四日がその締め切り日と決まった。 連日、連夜、第一次登録をすませたお米屋さんの家へ足を運んだ。おりから真冬のさ中、 なかなかにきつかった。ある夜、大雪となり、私は早目に引きあげたが、細谷君は電車がとまってしまい、 品川で一夜を明かしてしまうというようなこともあった。 いよいよ最終日第二次登録の日をむかえた。まず、菅原君に様子を見に行ってもらったところ、 百軒あるなしという。少なくとも百五十軒はとれるとの見込みをたてていたのに、これはあぶない。 そこで、もう一度念のため、あらためて、早貸君に調べてもらった。すると、百軒どころか、 三百五十軒ほどものお米屋さんが、”山種”との取引先になってくれていた。予想の倍以上であった。 あまりに登録の数が多いので、役所の係が山種の分は一部別扱いで取り外してあったのを 菅原君は知らなかったにすぎない。嬉しかった。 いよいよお米の卸しが出来る。昔どおりに産地からの集荷までは許されないが、あとは同じである。 商売がはじまった。昭和二十七年の四月一日、待ちに待った日であった。すでに、各地からの米が 手元に集まって来ていた。玄米をこの手に握りしめた時、あのなつかしい回米問屋時代の感じが よみがえった。思わず嬉しさがこみ上げ、しばらくは笑いがとまらなかった。 お米、お米。それは私にとって、切っても切れないものだ。 しばらくして麦、粉、そしてメン類も統制をはずされることになった。政府保有の押麦、小麦粉、メン類が 一せいに払い下げられる。このチャンスは逃せない。早速にソロバンをはじいた。出来るだけ安く、 しかも大量に落札するのが狙いである。何べんも、何べんも、コスト計算をした。その売りさばき方もたしかめた。 農林省から店にきてもらった富沢君には頑張ってもらった。全国にわたり各地の食糧事務所で 入札したのだから、その準備も大変だった。そして、山陰の鳥取までも走ってもらったのである。 これは大成功だった。もっとも、落札することだけに力を入れて、そのあと引き取る資金の方は 細谷君にまかせっぱなしにしておいた。たしか、代金は総額で一億三千万円ほどであったが、 そのころのことだ。決して小さなお金ではない。相当に苦労したように思う。 私は往々にして、先へ先へと走る。店のもの達はいつもわずかな日限のうちに間に合わせる仕事を おしつけられた。それは私にも分かっていた。 だが、”そこを何とかするのがクロウトだろう”と言い捨て、強引に突っ走った。そういう毎日だったのである。 さて、話は戻って大量に落札した押麦、小麦粉をどうしたかだが、 これは山種米穀のお得意のお米屋さんへ回した。当時はまだ食糧は十分とはいえない状態だった。 押麦にしても、小麦粉にしても、買い手はいくらでもあった。 お米屋さんにすれば商品は多いほどよい。この他、昭和二十七年には「文化メン」を売り出した。 故郷の群馬県安中で作り出された乾メンで、従来のものとちがうのは三〜四本の筋が入っている点だった。 この筋があるために、ゆでる時間はずっと短くすんだ。この文化メンは大好評、 お米屋さんから山種系以外の店には売らないでくれとまで言われた。値段は一束二十五円、 当時としては破格の値をつけたにもかかわらず、飛ぶような売れ行きだった。 山種米穀の米取扱高は年間百三十万俵、東京の五十五万人分を受けもち、基盤は確立した。 しかし、お米の商売には季節性がある。そこで一年を通じて安定した仕事をやっていくように考えた。 春をすぎた頃に菜種を買い集めて製油会社に、初夏には麦を集荷、製麦、製粉、そしてビール会社に、 そのあと甘薯を手がけ、添加用アルコールを作る醸造会社に、そして終わりは米という商売である。 その他、飼料用の雑穀など出来るかぎり手を拡げるようにした。 そんなわけで、昭和産業、三楽オーシャン、宝酒造、サントリーといった一流会社ともつながりを もつことになった。のちに、昭和産業の役員の末席に名をつらねることになったのも、 また、息子の富治に三楽鈴木三千代社長のところから嫁を迎えたのも、食糧品に縁があったからであろう。 次へ |
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