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第27話 動乱ブームを背景に  

朝鮮動乱ブームを背景にして展開した大相場、それは私にとって、忘れようとて忘れられない相場の
一つである。昭和二十五年の半ばにはじまり、二十八年の二月まで、実に二年半をこえる息の長い、
しかも五倍に近い大幅な値上がりをみせた空前とも言える上げ相場であった。
しかし、ソ連の巨星スターリンの死をキッカケについに崩壊した。
あまりにも劇的な終幕であった。今もなお、相場が急落するたびに人々の口にのぼるスターリン暴落である。
それは、戦前、昭和十一年の二・二六事件当時を思い起こさせる経験でもあったのである。

  昭和二十四年五月に証券取引所が再開されてからはじめて訪れた好況、
それが朝鮮動乱ブームであった。ちょうど、旭硝子事件が解け合いにより、ようやく片づいてから、
わずか二ヶ月ほどたってのことである。昭和二十五年の六月、突如として、北緯三十八度線において
北朝鮮と南の韓国との間で衝突が起こり、アメリカ軍の介入によって戦火はどんどん拡大していった。
それまで、ドッジ旋風とまで呼ばれた強烈な引き締めで、くたくたになっていた日本経済は
すっかり息を吹き返した。朝鮮動乱はまさに神風であった。”特需”のおかげである。
特需と並んで”金へん”という言葉がもてはやされたのもこの頃のことであった。

  兜町では”戦争は買い”である。取引所再開以来下げつづけ、一時は閑古鳥もなくようだった相場も、
一挙に反騰に転じた。以後、上げっぱなしとなったのである。
とにかく、その前年末に株式市場は半恐慌状態となり、SCLC(証券処理調整協会)による株式売り出しの
一時注中止をはじめ、金融機関、生保の買出動、法人や証券会社による工作買い、
さらには日証金、大証金の設立など次々に手が打たれたのに、とんとききめがないような有様だった。
あきらかに売りこみすぎである。

  買い気に火がついた。売りこみの反動も手伝って、
一たん燃え上がった買い気は消えようとして消えずいつ衰えるともみえない。
しかし、翌二十六年七月には朝鮮戦争休戦会談がはじまった。まず、繊維市況が暴落した。
輸出は不振となり、景気は下降に入った。だが、株価はおかまいなしに上がる。
完全な”不景気の株高現象”を呈するに至った。
二十七年に入って、間もなく二月に綿紡は四割という大幅な操短を実施することになった。
翌三月にはゴムも三割操短に入った。不況は次第に拡大し、深まっていった。
だが、株価の勢いはおさまらない。それどころか、上げ足は早まる一方である。
こんな状態が長つづきするはずはない。私の経験では、商品市況の方が株の相場より動きが早いからである。
相場は熱気を帯び、あきらかに人気化しはじめた。利回りはぐんぐん下がり、
二十七年のはじめに一四〜一五%だったものが、夏をすぎるころには九%を切って
債権の利回りをも下回るようになった。異常である。もはや正気の沙汰ではないような動きになってきた。

  こういう時には保険つなぎをするにかぎる。私は、まず東京海上を手はじめに、平和不動産や
陽和不動産、開東不動産(現三菱地所)など、連日人気を呼んでいる株から、カラ売りをかけた。
二十七年の秋のことであった。ちょうど、東京海上が六百円台に乗せたところ、
陽和、開東不動産が千円を突破したあたりである。私のやり方はフシフシと思われるところで
売り上がっていくのだが、連日のように新値を更新するのだから、売り方にとって事態はだんだん
容易ならぬ方へと進んで行った。九月に六百円台の東京海上は、翌十月には八百円に接近し、
年末になるとついに千円の大台を突破して、千百四十五円という高値をつけた。
年がかわって早々、ようやく騰勢は鈍ってきたが、千二百円にあと一息までに迫った。
カラ売りをはじめて四ヶ月、株価の方は二倍になっていた。

  もともと、冷静な方だが、あまりの相場の強さにともすれば動揺しそうになった。
だが、利回り二%を切った繊維、損保、不動産株などをみると、いくら無償抱き合わせの
二倍、三倍増資を計算にいれたところで、いささか気ちがいじみた相場である。
昭和飛行機の九千八百円、常磐砿の二千八百円、川崎航空の八百円、陽和、開東不動産の
二千円という値段が今から二十年前についたのである。
そして、東京食品、星製薬、野崎産業、富士自動車といった小型株が乱舞するに至った。

  株と名がつけば何でも買っておけである。連日の大商いで、二十七年の年末には水曜日午後の立会を
休むようになっていたが、二十八年になって、立会時間の短縮も行われた。コンピュータもなく、
人手だけではさばききれなくなったのである。この時”暁に祈る”兜町と呼ばれた。徹夜つづきだったからである。
大天井近し、との確信を強めた。もう一日、もう一日とがんばった。
ついに、その日がやってきた。三月五日、スターリン重体との報が入った。
その何日か前から波乱をみせていた相場は一気に崩れた。再軍備ムードは吹き飛び、
投機の中に酔いしれていた株式市場は冷水を浴びせられ、眼をさました。二千円に接近した東京海上も、
高値からわずか三ヶ月後には五百円台をも割りこんでしまったのである。

  商品相場の動きは早く、正しかった。株式市場は蛎殻町(商品相場)から流れこんだ投機資金、
戦後再びスタートした投資信託の買い、たまたま相次ぐ大幅無償を抱き合わせた増資を材料によって
華やかな踊りがくりひろげられたいたので大きな景気の流れが変わったのに気がつかなかった。
舞台の幕はとっくにおりていたのである。
このあと始末は結構大変だった。私はカラ売りしていたのを買い戻したが、東京海上は逆に買いこして、
第二位の大株主になった。私としては、東京海上に見切りをつけるということでカラ売りしたのではない。
あくまで、行きすぎた人気、その人気分を売ったのであった。
「売りの山種」として、大きくカラ売りしたのは、これが最後になった。
いよいよ「買いの山種」として日本経済と産業の成長、されには証券業者としての使命感を
認識していくことの重要さに頭の切り替えが必要になってきたのである。


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