|
|||
PR |
第28話 小豆事件戦後、相場に負けたのは旭硝子事件ともう一つ、株ではなく小豆があった。悪いことは重なるもので旭硝子事件とほぼ時を同じくして起こった。この時もしまいは混乱し、 解け合いによる解決となったが、私がちょうど穀物取引所の理事長の職にあったことから、 事態はきわめて面倒なものになってしまった。右翼の大物として人も知る児玉誉士夫氏が登場し、 買い方に肩を入れるにいたって、まさに異常な局面がくりひろげられたのである。 私は例によって売り方に回っていた。とどのつまり、私が理事長のイスを降りることで やっと幕がおろされたのである。世間では山種のヤツもこんどはまいったろうなどと噂していた。 また、小説などの材料にもされたりした。野間宏先生の「さいころの空」にも出てくる。 いい酒の肴になってしまった。 私にとっては苦々しい思い出である。 だが、お話しないわけにもゆくまい。その時はこんなぐあいだったのである。 戦後、小豆の取り引きが出来るようになったのは、株式におくれること三年半、昭和二十七年十月に 東京穀物商品取引所が開設されてからである。この取引所は戦前米穀商品取引所のあった場所、 蛎殻町に作られた。そして、将来、いずれお米の取り引きも行なわれるであろうことを考えた上のことである。 さて、私は手初めに買いから入った。当時、小豆の値段は一俵(六十キロ)当たり五千円割れの 安値をつけていたからである。いくら豊作とはいいながら、経験からみて小豆が米より安いのはおかしい。 翌二十八年に入ると、ボツボツだが、相場は予想したとおり上がりはじめた。まず買いで成功である。 しかし、下げすぎの水準訂正だから、儲けの方はそれほど大きくはなかった。 ところが、秋口に近くなると相場は急奔騰の気配が濃くなった。 というのは、この年、二十八年は小豆の作柄がひどく悪かった。収穫予想が出るたびに下がり、 最終的にはわずか六十四万俵弱となってしまった。前の年が百十万俵だったから、四割以上もの減収だ。 年が変わるや、相場は日一日と上げ足を早め、しかも、今日はストップ高翌日はストップ安といった 波乱商状をみせながら、五月には九千円の大台に今一息のところまで迫った。ここで私のハラには、 例によって売りの虫が動きはじめた。こんなに高くなった小豆を一体誰が食べるのか。 羊かん屋さんだって、そうそう小豆ばかり使い切れない。手芒(つるなしいんげん)などを沢山まぜなければ とても商売にはなるまい。自然に、需要も落ちてくる。それが理というもの、値下がりするのも時間の問題である。 だが、前年の大凶作、そして、まだ何とも分からぬが今年も不作になるのではないか、 といった見込みがでてきたため、売り方はすっかり動揺、一せいに買いに転じた。 市場は混乱し、とうとう解け合いに持ちこまれるという異常事態になってしまった。 戦後、取引所が出来てはじめてのことである。この解け合いのあと、さすがに相場も騰勢一服、 これでおさまるかと思われた。だが、嵐の前の静けさ、この解け合いは次に訪れる大波乱の 兆候でもあったのである。 私の心は売りときまっていた。静かに、静かに、売りを開始した。 解け合いのあとは、十月限以降、十一月、十二月の三ヶ月しか相場は建てないことになっていた。 だがいったんおさまった相場の火は再び燃えあがり、秋には実に一万円台という前代未聞の 高値を呼んだのである。私の見込みでは大凶作が二年つづくとは思っていなかった。 それが、見事はずれた。 とんでもないことになってきた。これでは尋常の話ではおさまらない。 売り方としてはとにかく、現物の小豆を出来るだけ手当てし、現物を渡すより他に手はない。 買い戻しに出れば火に油を注ぐようなものである。年の暮れになって、うちの西本春次君に急拠、 産地の北海道にとんでもらった。やっと大晦日に西本君は帰ってきた。農家との話し合いは難航、 こちらの目当てとする三等品もたった千俵、二等品が三千俵という有様である。しかし、相場は急落した。 どこからもれたのか、売りの山種が現物手当てに成功とのニュースが伝わったためだ。 といっても、実際に、手当てできたのはわずか、焼け石に水である。 二年続きの凶作、相場暴騰の最中に内地産を集めようというのがどだい無理な話であった。 あとは、輸入物を手当てする以外にない。この方は何とか手をつくした結果、 一千トン、ざっと一万六千俵ばかり話がまとまった。現物を渡すメドはついた。相場は暴落した。やれやれである。 これで狂い相場もおさまったものと思った。ところがである。そうは問屋がおろさなかった。 ツナギを外し、現物を渡すところで、さ細なミスがあったころから、 なんと右翼の大立者児玉誉士夫氏が登場した。想像もしてない事態である。 これまで、相場が異常に急騰をつづける途中で、過当投機をおさえるために、証拠金を大幅に引き上げたり、 その他、あらゆる措置をとってきた。取引所の理事長としては、至極当然のことをしたまでであったが、 私が売り方で、それら一連の措置が買い方に不利であり、小さな業者をいじめるためだったろう、 との言いがかりである。 売り方惨敗である。現物渡しにより相場を冷やそうとする作戦が 九分九厘まで成功していたのに、失敗した。私は売り方の大手、損も損、億をこえる大損となった。 会社では周囲のものがひどく神経を使っている。大体、私は相場に勝っても、負けても 表情を出す方ではないし、説明もしないのだが、この時ばかりは不機嫌になっていたのだろう。 息子の富治がおそるおそる「どうなんですか」と聞くから、「お前は何も心配するな」と答えたが、 会社に入って二年目、くわしい話を知らされていなかったものの息子なりにかなり分かっていたようだ。 「そんな強がりを言っていいんですか」という顔をしていたからである。 たまたま、理事長としての任期も来たのでその職を木谷久一(全糧商事社長)さんに譲った。 このあと、さしもの大波乱相場も下げに転じた。実を言えば、この流れに乗って、あらためて売りをかけ、 損をいく分かとり戻した。私としては相場の見通しで負けたわけではない。見通しはたしかだった。 だのに敗れた。あらためて、自分の見通しを実践し、儲けをとった。このことを知っている人は少ない。 あまりにも、事件が大きく、後日のことはほとんど目立たなかったからである。 それはそれとして後味はいかにもよくなかった。 次へ |
||
| Copyright(C)2005 Al-chemy All Rights Reserved | |||