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第3話 上京明治四十一年十一月二十八日、私は郷里をはなれ東京へ出た。この年,日露戦争後戦勝に酔い,人心が遊惰に流れるのをいましめる「戊辰の詔書」が下された。 満十五歳にあと十日という時である。フトコロには八十六銭しかなかった。 この内から汽車賃を五十銭ほど払ったので,残りは文なし同様である。 いささか無謀のようだが,実はあてがあった。 私の父の従兄にあたる人が深川で回米問屋を営んでいたからで、 その山崎繁次郎さんを頼ることになった。 当時の回米問屋といえば大したものだったが、山崎繁次郎さんはわずか十二歳の時に上京、 回米問屋渋沢商店に入り、のち倉庫業もやってから,独立して回米問屋を開いた人である。 明治三十年に渋沢家が倉庫部を設立する際に渋沢家,渋沢商店とともに 自分の倉庫を現物出資している。渋沢倉庫の母体である。 責任者は渋沢栄一さんの息子篤二さんだった。そんなわけで渋沢家とは近い関係にあり, また,龍門社を通じ浅野総一郎、大倉喜八郎、清水釘吉などといった財界の巨人達に 接する機会もあったようだ。大変な成功者である。 時事新報で出した第一回の全国金満家調べによると山繁さんは、 明治末期に五十万円という財産家であった。 当時,島津,細川,相良,鍋島といった元大名からの小作米の売りさばきを引きうけたり、 山形県酒田の大地主、本間の米も扱っていたのだから羽振りの良さは言うまでもない。 その大店、山繁商店の小僧に住みこんだのである。これが実社会に出た第一歩だった。 右も左も良く分からない小僧の初日,義太夫の催しがあった。 主人はご恩返しの意味もあって、義太夫の好きな渋沢篤二さんを招いたものだった。 渋沢篤二さんは大変な粋人であり、また、写真など新しいものにこっていた。そこで、 たまたまお寿司が振る舞われた。大変な御馳走である。しかし、にぎりが食べられなかった。 私の育った群馬は海のない県で、めったになまの魚、それもまぐろの刺身など 口に入るわけもなく,いくらすすめられても無理だった。 魚といえば、自分で獲ったうなぎか、どじょうである。 私のうなぎ好きは知っている人も多いが、実は年季が入ったものである。 それはさておき、その晩からいつでものり巻ばかり食べたおかげで「のり巻小僧」のあだ名が ついてしまった。いくらなんでも馬鹿にされた気がして、ほんとうにくやしかった。 次へ |
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