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第30話 兜町は宝の山「兜町は宝の山」と打ち出したのは、昭和三十二年六月のことだった。神武景気のあとである。神武天皇以来の好況というので名づけられた神武景気ではあったが、 国際収支の赤字には勝てなかった。手持ちの外貨は十三億ドルあったものが、あっという間に半分になり、 五億ドル台も割りこんでしまったのである。例によって、公定歩合が二度にわたって引き上げられ、 金融引き締めの急ブレーキがかかった。相場は暴落した。そして、単純平均百円ワレが実現したのである。 この単純平均百円ワレというのは、滅多に出ることではないし、またそう長くは続かない。 調べてみると、昭和二十八年からの五年間で、二十九年に三十三日、三十年に六十八日と 総立会日数の七%にすぎない。しかも、主要な会社百六十社余りについて、純資産を計算したところ、 額面の四倍をこえていることが分かった。ざっと、二百円以上である。 別に、すぐ解散して財産を処分するわけではないが、二百円以上の値打ちがある株が、 百円を切っているのはいかにも安い。安値でゴロゴロしている優良株は、 私の目には、金とも、ダイヤモンドともみえたのである。 そこで、今こそ株は買い時なり、と大いに宣伝しようと思いたった。ふと、思いついたのが、川柳である。 これなら、やわらかいし、投資かにもすんなり受け入れられるのではないか。それに第一おぼえやすい。 早速、その道の第一人者であった川上三太郎先生においでをこうた。先生には選者になって頂き、 とりあえず社員とともにいろいろ案をひねってみたのだが、なかなかうまいのが出てこない。 私が口火を切って「兜町は宝の山」というのはどうか、と言ったら、皆はそれじゃあんまり古くさいと笑った。 ところが、川上先生は一言「これが良い」と賛成して下さったので、一ぺんにきまってしまった。 反響は意外に大きかった。中には、「宝の山」どころか、「瓦の山}ではないか、などと早速まぜっかえす人もいた。 何しろ、外貨底つきで、国際通貨基金や輸出入銀行から借金をして切り抜けようという状態だったのだから、 悲観ムードがあふれていたし、無理もなかった。この時の川柳には”いらっしゃい 宝の山が 招く夏”、 ”奥さまの 宝の山は 兜町”というのから、”幽霊の 出そうな時に 株を買い”などといったものまであった。 こうした川柳を使って新聞広告をどしどしやったのである。 そして、七月十九日には思い切って”日米経済講演会”と題して、当時まだ茅場町にあった日経ビルの 日経ホールで講演会を催した。 数百万円を使った大広告は大きな話題になったのであるが、大蔵省からお目玉をくったのにはまいった。 専務の富治が呼び出されて「宝か瓦か、玉か石か分からないのに、宝の山と断定しては誇大広告だ」と、 ついに一札とられてしまった。商人と役人のちがいである。 この時の講師は、経済評論家の高橋亀吉先生、当時自由民主党副幹事長だった福田赳夫代議士、 そしてかくいう私の三人であった。 まず、高橋先生が日本経済に自信を持てと悲観ムードを追い払い、 福田副幹事長は日本経済が立派だから国際通貨基金も、輸出入銀行も三億ドルにのぼる金を 貸してくれたのだと強調された。私は「宝の山」の由来を解説した。 当日、会場は大入り満員札止めとなってしまった。定員の三倍の人が押しかけたのである。 私は浜松から、あるいは静岡からやって来たんだ。何としても中へ入れろ、いや入れぬのさわぎである。 係りのものに聞くと、日経ホールでは消防法の関係があり、しかも消防署が目の前にあるので、 とてもこれ以上はダメだという。それではしようがない。結局、後日講演の要旨をお送りするということで、 丁寧にわけを話してお引とり願う一幕があってようやく落ちついた。 その後、株式市場は年末までパッとしなかったものの、次第に反騰の足固めをしていた。 年がかわり三十三年からは、完全に上昇に転じ、大相場がくりひろげられた。戦後において、もっとも息が長い、 しかも値上がり幅の大きかった大型相場、岩戸相場へとつながったのである。 生涯のうちでも、これほど印象に残った講演会は他になかったように思う。「買いの山種」に変身したのである。 次へ |
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