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第32話 投信に踏み切る

 投資信託に踏み切るについては、いろいろと紆余曲折があった。
すでに、前の年、野村、山一、日興の各大証券がそろってオープン型投信に進出、非常な人気を呼んでいた。
これまでの長い相場体験から考えてみても、人様のお金を沢山お預りしてうまく運用するのには
大きな危険が伴う。大変な仕事である。
相場の波を乗り切るのはむずかしい。たとえ一年ぐらいうまくいっても、
これを長期間つづけるとなると容易ならざる話だ。上げ相場の時はよいが、さて、下げに入ったらどうだろう。
得意のカラ売りを使ってのつなぎも出来ないのである。
私の親しい友人の中には「投資信託なんてとんでもない。輝かしい”山種”の信用にキズがつくぞ」
などという人もいた。まかりまちがえば、そうなる恐れは十分にある。はじめはどうにも気がすすまなかった。

  ところが、息子の富治は「これからは大衆投資家の時代です。直接株式投資をやらせるよりも、
われわれ専門家の手によって、少しでも上手に運用して喜んでもらうべきじゃないんですか、
会社も全国的に支店がもてる……」と毎日のように口説かれた。
たしかに、時代の流れはそうだ。沢山の資金を集め、分散投資するのだから、危険も小さくなる。それも理屈だ。
それは分かるんだが、実際にはそう甘くないとみていたのである。
しかし、息子の熱の入れように、私も重い腰を上げることにした。

  さて、私のあだ名「ヤマタネ」をつけた「山種オープン」の募集をはじめてみると、人気は上々。
締切日には当初予定の十億円に対し、二十三億円ものカネが集まった。
この頃はまだ一万円札も出ていなかった。千円札の山である。次から次へと段ボール箱が一杯につまった。
当日、銀行さんに出張して頂かねば処理出来ないほどの大盛況となった。
ヤマタネなら預けましょうという方も多く、実に嬉しかった。
山種の信用がいかに大きいかを知らされるとともに、その責任の重大さを痛感した。

  やるからには、これまでに積み上げてきたすべての力を注ぎこむべしである。
自分で相場を張るのとは、いささかおもむきがちがう。何はともあれ頑張った。幸いに努力した甲斐あって、
良い時には一口当たり半年で百五十円とか百六十円もの分配金を出すことも出来た。
そして、一番集まった時、昭和三十三年には残存元本も実に百億円をこえ百五億円に達したのであった。

  当時、投信の運用競争は想像をこえるものがあった。他社と同じ株を買っていったのでは、
後から出発した私の方は不利である。そこで、独自の銘柄を見つけなくてはならない。
大証券とはちがって、資金の量が小さいから運用する銘柄も大型株ではまずい。
そのへんなかなかの苦心が必要だった。はじめに十五銘柄を組み入れたが、その中には日清紡、昭和産業、
辰巳倉庫、播磨造船、浦賀船渠など、よそとはぐっと毛色のちがったものが入った。
何しろ、大手筋は強力な営業体を動員しながら、組み入れ銘柄を買い上げることで、
投信の基準価格を持ち上げていた。それに対抗するためである。
正直言って、この競争は本当にきつかった。もはやそこには私の儲けは頭の片隅の方に追いやられていた。


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