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第33話 証券恐慌そんなことはまさか……というようなことが起こった。昭和四十年の五月の末、山一証券が、そして、大井証券が破綻を来したのである。 山一証券といえば四大証券の雄、歴史もあり兜町の名門の証券会社である。 私のような経験の長い者でも業界でこんな大きな事件は覚えがなかった。 戦前でこそ、オヤジが相場に失敗して株屋がつぶれたなどというのは珍しくもなかったし、 戦後でも戦前水準に復帰する昭和三十年以前では、一つ大きな相場が終わると小さな地方の証券会社が 姿を消すこともままあった。だが、こんどは話しがちがう。これはえらいことになるぞ、と直感した。 大体、証券界としては、それまでに証券市場のテコ入れのため、あらゆる手を打ってあったつもりだった。 これより二年前、昭和三十八年には銀行の力を借りて日本共同証券が発足し、 崩れる株価をダウ千二百円のところで買い支えた。初めはうまく行った。 千二百円以下には下がりっこないというので、安心感も生まれ、売り物も一時はひっこんだからである。 ところが、景気の方はよくなるどころか、悪くなる一方。興銀から証券界にこられた日興の湊さんが 構造不況論を唱えられ、余剰機械の政府買い上げ案などが大いにぶたれていた。 こうなると、先の見通しはマックラ。買い支えてくれるうちに売っておけ、とばかりに売り物が出てきた。 こうなると、防ぎきれるはずもない。流れは変わった。何とかしなければいかん。 私はもちろんのこと、業界の誰もが思った。 そこで、年がかわると早々に日本証券保有組合を設立した。株式の凍結機関である。 戦前でも、何回となくこうした機関が作られたものだし、この時は私としても業界の長老ということで、 当然の話しながら、精一杯動き回った。何しろ、投資信託や証券業者の持株を直接引き取ろうというのだから、 業界の中の利害もさまざま、その調整には骨が折れた。しかし、何とかまとまり、とにかくすべり出したのである。 私の見たところ、当時の株式相場は米相場時代の「余りものに値なし」に近い状態だった。 すでに、”単純平均百円割れ”である。自分では、二月頃からボツボツ買いはじめた。 そこへ戦後、最大といわれる山特鋼の倒産が飛びだした。しかし、そのこと自体それほど驚きもしなかった。 かつてない大不況とか、余った機械を政府が買い上げろという議論が毎日のように討わされていた頃である。 採算を無視して売られれば、いつかは必ず見直される。これが相場の鉄則だ。私は株を買いつづけた。 私のソロバンにも、十分採算があるからだ。 実を言うと、三月頃になるとどうも山一証券が大変苦しいらしいとの話は聞いていた。 だが、絶対に乗りきらなくてはならないということで、皆が努力していたし、何とか乗り切れるとみていたのであった。 それがはしなくも、表面化した。最後の線が崩れた。もはや山一証券、大井証券だけのことではない。 証券会社、いや証券市場そのものに対する不信である。こうなれば、株価は採算も何もあったものではない。 自分のところは岩戸相場のあと、翌年の昭和三十七年から不採算店舗は閉めて、 経費は大幅に削減し、人員も縮小するなど、いち早く撤退作戦をとっていたので、 どうにかしのげるのではないかとの自信はもっていた。 その頃のことである。「山種とのあろううものが一体これは何だ。若僧の名前で紙切れ一枚よこし、 おれのところの新聞をたった二部に削るなんて……」と業界新聞社の社長さんにどなりこまれたことがあった。 証券界も苦しいが、業界紙も苦しい。係の課長が思い切って削ったのを直談判されたのだが、 それほど徹底した経費切りつめだった。 それにしても、もう証券業界自身の力の及ぶところでない。 たまたま私が時の蔵相福田赳夫氏と姻戚関係にあることから、政府に思い切った処置を頼むより他なし、 その橋渡し役を依頼された。しかし、ただ何とかしてくれというのではいたし方ない。 そこで、長年じっこんの間柄にあった経済評論家高橋亀吉先生にお話して、この際もっとも効果のある カンフル注射のような景気対策を政府にとってもらうよう、まず福田蔵相を口説いてもらうことにした。 高橋先生は例の情熱的な論調で再三、再四、くり返し、公債発行による景気回復策の採用を説いて下さった。 あとから考えてみれば、当然採用されてしかるべき政策であったが、 され戦後はじめてのこと、政府としても非常な勇気が必要だったように思う。 それを踏み切らせたのには高橋先生のお力によるところ大であったように思っている。 待望の国債発行による景気対策がようやく七月末に打ち出された。しめた、と思った。 しかし、世上では、こんな程度で立ち直れるはずがない、といった議論が圧倒的だった。 あまりに長い間の不況の中で、暗い面ばかりみなれていると、急に明るい光がさしこんでも、直ちに信じられず、 またすぐ消えてしまうのではないか、といった疑惑を感ずるのはやむをえない。 でも私は昭和の初め、金輸出再禁止の時のことを思い出していた。 それに、株価そのものがひどすぎた。二百円以上の株はわずか十五を数えるだけで、 逆に額面ワレはぞろぞろである。 ソニーでさえ二百五十一円と五分利回りになっていた。単純平均は実に八十五円という記録的な安値だ。 「宝の山」の時の単純平均百円ワレから二割も下である。利回りは六%に近く、しかも、信用取り引きでは カラ売りが九千五百万株もの空前の水準に達していた。悲観の極にあった。 大いなる悲観は大いなる楽観に通ずである。 ただ、私には財政投融資を中心にした四千億円の政府支出の増加が、 三倍の一兆二千億円もの効果を出すという仕組みが簡単にはのみ込めなかった。 そこで、調査部のものに説明させると、現代の経済理論から正しいという。それにもまして、 政府の積極政策発表の翌日、証券界代表の一人として、赤坂の料亭玉林荘に招かれ、 佐藤首相からじかに話を聞いたので、これは大丈夫との確信をもった。 そこで、私の店では全社員を激励し、積極買いの旗をあげた。信用取り引きの買いについては枠を撤廃、 無制限にした。大いに買いまくれである。そして、次のような手紙を投資家の皆さんに送ったのである。 謹啓 残暑きびしい折から益々御元気に御活躍のこととお慶び申し上げます。 さて、長い間低迷不振を続けて参りました株式相場も政府の積極政策転換をキッカケに一挙に反騰し、 あの大天井より四年目にして大底を形成、一大転換を致しました。 こうした環境からみますと株式直接投資への絶好の機会と思います。 一、政府は積極財政政策に転換し公債発行にふみ切ったのであります。(中略) まさにダウ平均千百五十円以下は不況ムードによる再三無視(一流株六分利回り)の 売りこみすぎであったと言えます。 二、低金利が浸透してきました。債権類の売れ行きはすさまじいものがあり、 品不足状態にさえなっております。 ……各金融機関はいち早く有利な株式に注目、……安定株を狙って利回り採算買に出る一方、 百五十万株以上のカラ売り銘柄を目標に大証券が買出動しております。 三、市場内部要因として借株残が一億株に達しております。それだけに如何に不況ムードの売り人気が強いかを 如実に示しておりますので、これが三分の一に減少する迄は相場も上昇するでしょう。 四、政策の転換と同時に鉄鋼、繊維など重要商品の市況が急反発しました。 五、この九月期には減配、或いは無配の企業は一応出尽くしとなり、 来年三月期には配当も安定することになりましょう。……買い安心ムードが一般に拡がるまでに 買出動すべきと考えます。何といっても株式投資には時期を選ぶことこそもっとも肝要であります。 ここは充分に御検討頂き、ぜひとも株式の直接投資に再び出動されるようお考え頂きたく存じます。 先は近況御報告旁々お願い申し上げます。 敬具 昭和四十年八月 山種証券株式会社取締役社長 山崎種二 どうも、カラ売りが三分の一になるまで、とか、一般に買い安心ムードが拡がるまでは買いだ、など、 いささか表現がきつすぎた。証券会社の代表者でもあり、大蔵省やその他から、御注意もうけたが、 私はまちがったことを言っているのではないし、第一、このくらい言わなければ株を買おうという気に ならないほどの沈滞ぶりだったのである。 相場は大底のダウ千二十円から千五百八十八円まで、七月を出発点に翌年四月まで一気に突っ走った。 途中、千二百五十円のところで一服したが、この間多くの理論家達の間には、株価は行きすぎとの批判が うずまいていた。景気の実体は不況の底をはっているのに、株価は現実からかけはなれた動きを しているというのである。しかし、こんなことで止まるはずはない。三十五億株にものぼる株式が 共同証券と証券保有組合の二つの凍結機関に吸い上げられてしまったあとで、大した売り物などないからである。 私は、調査マンにこういったことを覚えている。「お前、今こそ株も買うべし、酒も買うべし」と。 こんな時にはキャバレーに行っても、同じ一万円札がモノを言う。 好況で浮かれている時の何倍かの値打ちがあるというわけだ。 そうは言っても、翌年になって、五割近く値上がりしたところからは利食い売りに転じた。 顧客にも利食いをすすめ、三月末には信用取り引きの買いに枠をはめて従来の水準の半分にした。 もはや、顧客も勢いに乗っており、第一線のセールスマンは困ったようだった。しかし、材料を先き食いし、 買い切った相場は反落に転じた。大成功だった。 これが、私が現役で最後の大相場になったのである。 私も七十をこえ、そろそろ隠退すべき時期にきたと、かねがね思っていた。それにたまたま会社に来ていて 仕事中に胆石で寝こんでしまった。命に別条はないが、余りの痛さに社長室で三日も泊りこむことになった。 何ともダラシがない。けれどもどうにもならぬ。ここで私も考えた。もう、このような証券恐慌は当分こないだろう。 いや、もうあるまい。それに、息子も四十台に入ったし……。また、一方で本社社屋の改築にとりかかっていた。 次へ |
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