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第34話 本社ビル完成私がいよいよ最後の大仕事にとりかかったのは、昭和三十八年のはじめの頃だった。本社ビルの改造、新築である。ざっと計算してみて十二億円はかかる。 このビルの中には事務所だけでなく美術館も設けようというのである。 これまで長い間、何回となく夢にまでみた計画だった。 さて、とりあえず、執務中の旧本社ビルよりどこかへ移転しなくてはならない。 幸いに、蛎殻町に七十坪ばかりの土地があった。ここは、東京穀物商品取引所、 戦前は米穀商品取引所の直向かいに当たり、甘酒横丁とよばれる通りに通じる道一本へだてた角地である。 私がかつて、回米問屋時代に清算取り引きのために店を出したところだ。 そして、株屋に進出した時の店にもなった、思い出も深い土地なのである。 ここへ、約一年がかりで、地上七階、地下二階の小型のビルを作った(現在の山種米穀本社ビル)。 柄は小さいが、外部の柱には花崗岩をはったり、 役員室の壁にはチーク材のねり付を使うなど、かなり贅沢なものになった。 ひとつには、次の大物を作るためのテストでもあった。いろいろな材料を実際に使ってみれば感じをつかめるし、 また部屋の使い勝手もはっきりする。その上、費用もおおよそ見当がつく。 というわけで、まずテストを終えて本番に移った。設計は日建設計に、建築は清水建設にお願いすることにして、 設計の段階から首を突っ込んだ。まず、手はじめに日頃、私が目にとめていたビルをどんどん回って歩いた。 ビルの形や使ってある材料で特色あるところ、それに、同業の証券会社などである。 大体、私の建築好きは、社員も分かってはいたようだが、今日はどこか、明日はどこかと催促するので、 建築の係になっていたうちの社員も、また設計をうけもった日建設計の担当の方も、音を上げたようだった。 何も、そんなにまでしなくても、写真や材料見本でわかるじゃないか、というわけだ。 しかし、これは株を買う上での会社調査と同じこと、実際にその会社の経営者にあって自分の眼で、 耳でたしかめてみなければ正しいことはつかめない。 旧本社ビルを建てた時も、同じように見学して歩き、 服部時計店(現和光)のビルでみた大理石を使ったことがある。 こんどは長期信用銀行の本店を参考にした。黒いミカゲの柱とステンレス、どっしりとしたあの感じが欲しかった。 美術館も、京橋のブリヂストン、大手町のサントリーから世田谷の五島美術館まで足をのばした。 実際に行ってみると、なるほどよく出来ていると感心させられる所も多く、色々な意味で得る所は大きかった。 そして美術館については、東宮御所を作られた谷口吉郎先生に、 茶室は裏千家の千宗室先生に、それぞれお願いした。 何としても最高のものを作りたかったからである。 ところで旧本社ビルを解体中のことだった。非常に手間どっていたので、現場監督の人に聞いてみると、 鉄筋が沢山入っていて、簡単にはこわれないのだという。地下室部分は煉瓦で二重に壁がつくられ、 水のもれるのを完全に防いであるのを目のあたりにみて、 三十年も前に精魂こめて作ってくれた清水建設の誠意をあらためて見直した。 当時の現場監督は城戸さんで、のちに副社長にまで出世された方である。 私が建築を清水建設に特命でお願いした眼に狂いはなかったと思った。 そして、着工してから二年で自慢のビルが兜町の玄関に完成した。 ちょうどこのビルの建築契約を結んだ時は世の中はオリンピック後の不況のさ中、 鋼材、棒鋼はトン当たり三万円スレスレ、セメントも安値、建設会社は仕事探しに一生懸命の時であった。 それだけに、費用も節約出来たし、また念の入った建築も出来た。好況の時にはそうはいかない。 証券恐慌にもぶつかった。そこで「さすが山種」とも言われた。だが、大事なお金の力をフルに発揮させ、 お金をうまく使うには不況の時に限る。「不景気に建築を」というのが私の六十年の仕事を通じて 身につけたものだった。汗水たらし、積み上げてきたお金の大事な使い方でもある。 お金を使う時と使い方が問題である。 ビルが完成した時、例の公債発行政策で景気は不況から脱却していた。期せずしてちょうど、昭和のはじめに、 旧本社ビルを建築した時とほぼ同じようなぐあいとなったのである。 私にとって生涯最良の日ともいうべき日が訪れた。新しく完成したばかりの本社ビルでその披露の宴が催された。 昭和四十一年の七月七日のことである。 この夜、山種関係の内輪の人達、証券、米穀、倉庫各社の役職員はもちろん、お米屋さんまで集まり いやがうえにも、熱気の盛り上がる席上で、私は山種証券社長のイスを次男の富治に、 そして、辰巳倉庫の社長を三男誠三に、それぞれ譲ることを発表し、あわせて今後の御支援を皆さんにお願いした。 湧き上がる拍手の中で、二組の息子達夫婦が頭を下げる姿をみているうち、さすがの私も涙があふれてきた。 ああ、せめてこの時まで家内が生きていてくれていたら、どんなにか喜んでくれただろうに、と思うと、尚更であった。 私が兜町のこの地に出てきてから、実に三十年余りの歳月が流れていた。このビルを建てた土地にしても、 最初は旧本社ビル用にわずか百坪足らずにすぎなかった。それが、兜町の表玄関にもあたる角地のほぼ一区画分、 三百七坪にもなっていた。裏の土地を買い、またしばらくして、一軒おいて隣が手に入るというぐあいに、 その時は高いと思っても「隣地は倍買い」の信念で買い足してきたものである。 何も、大きな相場をあてて、ごっそりともうけ、その金で一ぺんに買いとったわけではなかった。 私が信条としてきた「積み上げ方式」実践の結果であった。普通の人が貯金を積んでいくのと少しも変わりはない。 だから、土地だけでもここまでくるのに、三十年以上もかかったのである。 しかし、この日の朝、新本社ビル竣工の式にテープを切った時、もろもろの苦労は消え、すべては喜びに変わった。 つづいて、高松宮、同妃殿下をお迎えして、山種美術館開館のテープを切って頂いた時にはもう、 嬉しさがこみ上げてくるのを抑えきれなかった。 そして、息子達に社長を譲った時、正直ほっとした。 まだ、代表権のある会長になるとはいっても、私の気持ちとしては引退である。 この機会に出来るだけ第一線から、また公職からも退くことにしたのである。 戦前、そして、戦後も引きつづいて勤めていた証券取引所の理事の職も辞した。 業界の方から「まだまだ、いいじゃないか」と引きとめて下さる声もあったが、 自分としては潮時だと感じていたので、そのまま引かせて頂いた。 証券と倉庫は息子達に、そして米穀はすでに長年一緒に仕事をしてきた細谷慶助君に預けた。 残るは、山種美術館館長と富士見学園理事長としての仕事だけである。 しかし、相場は残っている。仕事から退くといっても、株式も、小豆も、糸も、 好きな相場を張ろうと思えば張ることが出来る。私から相場をとってしまった時、何が残るだろうか。 次へ |
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