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第37話 妻のこと

 その妻、ふうが忽然とこの世を去って、もう、十年の歳月が流れる。これといって病気をしたことのない妻だった。
それが、珍しく風邪がもとでふせってしまった。大事をとって、東大病院上田内科へ入った。ずい分良くなり、
明日は退院という日の夜だった。病状が急変した。そして、あっという間に不帰の人になってしまったのである。
泣けた、泣いた。涙がとまらなかった。
そして、次から次へと、妻の想い出が走馬灯のごとく、私の脳裏に浮かんでは消えていった。

 婚約時代の事だった。坂口の家へ行く時、鏑川を渡った。その時、橋がなく馬で川を渡った。
弟の篤二が馬を引いて川岸まで迎えにきていてくれた。妻の手をとり馬に乗せたのだが、
「私は馬は嫌いです。馬でなく、渡れるように橋をかけて下さい」とこともなげに言った。
のちに、星川橋を寄附したのも妻との約束を果たしたものだった。
大体、妻は乗り物に弱かった。船はもちろん、汽車も、自動車も、ダメだった。だが、つとめてがまんしていた。
子供達の教育については大筋は私がきめたが、あとはすべて妻の領分だった。
子供を家庭教師の所へ連れて行く時など、いつも気分が悪くなり途中で車からおりて、吐きながらも頑張り通した。
自分を抑え、常に夫の私から子供達、そして店のもの達のことを優先させて、考えていた。

  話はちょっと前に戻るが、一度大喧嘩したことがある。それは、長男を疫痢で亡くした時のことだった。
長男は結婚後一年そこそこにして生まれた。二人して、日毎の成長を喜びあっていた。
妻は長男を抱いて電車に乗ると、見知らぬ人が可愛い子だとほめてくれたなどと喜んでいたのに、
突如として、その子が世を去った。

お互いに責任のなすり合いみたいになり、二人とも口をきかなくなってしまった。
ある日、妻が家を出たきり夜になっても帰ってこない。大さわぎになった。
店のものも一緒に手わけして探したのだが、見つからなかった。
ようやく夜も白々の明け方、四時頃になって見つけた。小田急の線路ばたで死んでしまおうかと思い、
ぼんやりしていたというのだった。しかし、実家にとんで帰るようなことはしなかった。
その点、女は結婚した以上、帰るところはないのだ、という考えに徹していたのであったろう。
既に心底から私の一生の妻になりきってくれていた。

  独立した頃、とくに大正十四年に相場で敗れ、スッテンテンになった時、妻は私に何ひとつ聞かなかったが、
苦境を察していた。ただ、黙々と家庭を守り、店を守った。
私は安心して仕事に注力、思う存分走り回っていた。だが、勢いにまかせ、店のものを怒鳴りつけ、叱咤した。
考えてみると、ずい分乱暴だったように思う。
それだけに、店のもの達の中には、そのたびごとに、今度こそ辞めようと思った人も多かったはずである。
そんな時、とりなし方を頼まれては、いろいろ助言したり、私に対しては行きすぎをたしなめたりした。
住みこみの店員達の洗濯までも引きうけていたので、しつけにやかましかったが皆にしたわれていた。
ある意味では、私は妻に甘えていたのである。

  私は世間で”ケチ種”とまで言われていたが、妻はまったく逆の評価をうけていた。どんどん金を使ったからである。
もの分かりがよすぎるぐらいだった。たとえば、人に仕事を頼んだりすると、パッパッと思い切りよくお礼を出していた。
その中の一つ、戦争中だが、写真屋さんに家族の写真を撮ってもらった。写真代は十円だった。
お煙草代として渡したのが五円だった。もらった方がおどろいたらしい。
もう一つある年末、大掃除を手伝ってくれた店のものに電蓄をあげたという話もあった。

しかし、一方で、自分の身の回りのことになると、つつましかった。家の中でムダな電灯は消して歩き、
自分を飾るものといえば、私が婚約時代に買った指輪一つだった。決してねだろうとしなかった。
妻が三輪田高女に通っていた頃、化粧品会社がよく宣伝品を門前で生徒にくばっていた。
生徒達は上流家庭の人が多く、見栄も手伝って手を出す人は少なかった。
しかし、妻は使えるものだからといって、もらっておいたという。
まさに、人のために尽くす、内助に生きた女であった。
今日私のあるのは妻のおかげによるところ大であった。その妻を失い、日をへるにしたがって、
なぜ、私をおいて早々と逝ってしまったのかと、くやまれてならない。


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