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あるけみ掲示板

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第5話 終生の師に会う

俵かつぎは俵かつぎ、倉庫番は倉庫番として全力を尽くした。翌年には「サシ米」といって、
見本の米をお得意先に持って回る仕事もさせてもらえるようになった。
勤めはじめてから一年ほどたってからのことである。
当時は、今のように社員教育などしてくれはしない。一つ、一つ自分の体験を通じて
学びとってゆく他はなかった。それは山繁商店にかぎらず世間一般にごく普通の事だった。
しかし、一所懸命やればそれだけ進歩も早かった。

 たしか、二年目をすぎて、満十六歳の秋だった。主人のお供をして、米の主産地、東北の地主さん回りをした。
いわば、工場見学のようなものであった。仙台から青森、弘前、秋田を経て、酒田、鶴岡を回った。
その頃は、鉄道がなかったので、主人は人力車、私は借りた自転車を使っての旅行である。
酒田から鶴岡にかけては、約八里、三十二キロの道のり、自転車といっても空気の入った
タイヤがついているわけでなく、乗っているうちに、ズボンの尻が抜けた。

 ここは庄内平野、例の庄内米で有名な米の産地だ。
主人は私に、「ただ、ぼんやり通りすぎてはいけない。よく、田んぼをみなさい」と教えてくれた。
一目で作柄の出来、不出来を見きわめられるようになれというのである。
まず、脚で歩いて、自分の目で確かめる。これがその後あらゆる相場を張ってみて、
いかに大切なことであるかをつくづく知ったのであった。

 私がよく夏休みで田舎から帰ってきた社員をつかまえては「米の出来ぐあいはどうだったかね」
と聞いたのは、こんなところに根ざしているのである。
この頃になると、次第に、深川でも出入りする店や、小僧仲間の中で何人か知り合いも出来た。
そして、終生忘れる事の出来ない人に巡り合ったのである。一人は筒井商店の新倉多次郎さん、
もう一人は梅原商店の加藤兵八さん(後の梅原米穀社長)であった。
新倉さんは白米問屋といって玄米を仕入れ、これを精白して小売店に卸す仕事をやっていたが、
精白技術を改良し、成功した人であった。産地によってちがう米の品質を研究、
それぞれに合った精白を施して、上等精米を作り出したのである。実に研究熱心で、
とくに米の品質について造詣が深かった。わずか二十二歳の時に独立した立志伝中の人である。

 私が米の勉強をしたがって、ちょいちょい店を訪ねたせいもあったろう。
新倉さんのところでは「種どん、種どん」といって可愛がってくれた。
この新倉さんは得意の精白技術により、それまで原料米にしかならなかった朝鮮米を
食用にする新しい道を拓いた人でもあった。私が後年、朝鮮米の取り扱いで成功したのも、
ここに芽生えていた。その上に、米の相場では見通しのたて方から、
「サヤトリ」といった専門的なことまでの手ほどきもうけた。新倉さんは、私にとり、
回米問屋の店員として、また、米相場の道で修行するうえでの恩師だったのである。

加藤兵八さんは回米問屋でも当時、一、二を争う梅原商店の番頭さんだった。
どういうわけか、私のことを心底から気に入ってくれた。なれそめはたしか取引所の中であった。
親しくなるにつれて、色々と面倒をみてくれた。私がはじめて相場に手を出した時に、
注文をうけてくれたのも加藤さんだった。大体、小僧の分際で、自分の店で米相場を張るなど
許されもしなかった。といって、証拠金が十分にあるわけでもなし、よその店で
やるわけにもいかない。当時は証拠金なしで相場を張ることも出来たがそれは大手の相場師、
地方の米問屋さんに限られていた。私にはそれだけの信用もまだなかったのである。
だが、加藤さんは黙って私の注文をうけてくれた。

 かくて、六十年にも及ぶ加藤さんとの商売を通じた、また個人的な交際がはじまったのであった。
まさに男と男、裸のつきあいである。ある時は、ともに死のうと話し合ったこともあった。
それは、独立した後の話に出てくる。


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