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第7話 修行時代

 この間にも、郷里の山崎家の借金をなんとかせねばならない、との考えは、
一日も頭はなれたことはなかった。しかし、日一日と利息はかさむ、小僧の給金では
どうにもならない。借金の金額が四千二百円という大きなものだったからである。

 ある日、主人山繁さんの兄に当る和田喜太郎さんの口利きもあって、
当時碓井製糸所を設立し、代議士もやったことのある有力者萩原鐐太郎さんが
保証人になってくれたので、主人山崎繁次郎さんに借金を高利貸から
肩代わりしてもらうことになった。これには、落ちぶれたとはいえ、
山崎家の過去における信用が大きな力になったことは言うまでもない。

 これで、とにかく積み重なる利息からは解放された。しかし、借金の元金を返すには実に、
十数年もかかったのである。
小僧の私のためにそんな大きな借金を肩代わりしてくれた主人や萩原さんの
御好意には感激した。これまで以上に、毎日毎日の仕事に精を出した。
御好意に応えなければあいすまないと思った。

その頃の深川と言えば実に活気あふれた町であった。永代橋を渡って深川に入ると、
回米問屋をはじめ、雑穀、肥料の問屋が集まり、少し離れては木場を控えている。
富岡八幡宮、門前仲町辺りは賑やかなもので羽織芸者として知られる辰巳芸者が、
そして清算市場がある蛎殻町は人形町が隣り合わせで、
芳町芸者がそれぞれ「ケン」を競っていた。

 回米問屋は社会の評価も高く、収入も多かったので旦那方は大いにもてた。
そんなわけで小僧の中には主人にかくれて遊びをする人も結構多かった。
その服装は唐桟(木綿の平織りだが通人の好み)の着物に角帯をしめ、ハンチング、白足袋、
雪駄ばきだった。雪駄は底が革張りの草履で裏金が打ってあり、チャラチャラ音をさせるのが
イキといわれた。俺もたまには、と思ったことも一度や二度ではない。
しかし、横目で見ながら歯を食いしばってがんばったのである。
米問屋に飛びこんだからには、いずれ自分でも一軒の店をもたなければ、と心ひそかに
きめていたからがまんも出来たのだと思う。

 ただ、主人山繁さんは私にとって実にきびしい人であった。自分としては精一杯、
いや人並み以上に努力していたつもりだったが、ほんのちょっとした失敗も見逃さず、
ビシビシと叱りつける。忙しいなどというのは言訳にもならなかった。
 小僧から中僧になっても一向に変わらなかった。しかも、店の中、人前だろうと何だろうと、
かまわずに怒られるのだから、たまらない。がんばって仕事を余計にやればやるほど、
しまいには、他人のやった分まで、怒られるようなことになった。

 そこで、心ならずも、つい主人をうらんだりしてしまった。しかし、ウチの中ではそうだったが、
外では「うちの種ニは将来きっと大したものになる」とほめて歩いていたという事をあとで聞いた。
事実、あちこち得意先など、私を連れて回ってくれたのもそのせいだろう。
でも、その時は気がつかなかった。
それにしても、ただ身体を使って働くだけではたかがしれてる。
祖父、兵衛の「考え五両、働き一両」である。頭を使わねばダメだ。
だが、一方ではなんとなくうまく行けそうな気もしていた。

 そう、奉公に出てきてから間もなくのことだった。
たまたま主人の所に出入りしていた占いの先生、鈴木章文さんに人相と姓名判断を
してもらうことになった。すると、先生はじっと私の顔をみながら
「お前はきっと出世するぞ。相当の金持ちになれるかも知れないな。
十万円は間違いないだろう」と言われる。
頭にかっと血がのぼるような気がした。月給わずか一円五十銭の小僧が、
十万円もの金持ちになれるというのだ。嬉しくなって、一ぺんに気も大きくなり、
思わず「十万円出来たら先生に半分あげます」と言ってしまった。そばで聞いていた仲間達はどっと笑った。
でも、もしこれが本当なら、片時も頭から離れない例の借金も、綺麗さっぱり返すことが出来るのだ。

 私自身、「占い」を信ずる方でもなかったが、目ハナがつくのは、果たしていつのことやら、
手さぐりのような毎日を送っていた私にとって、一筋の光明をえた気がしたのである。
これが縁になり、先生にツゲで出来た開運の実印を作って頂いたが、
それは後年私が独立してからであった。

何はともあれ、この時の章文先生の言葉は私の心の支えになり、辛い時、苦しい時に
いつも私を励まし、助けてくれた。言葉は大きな力である。もしこの時、将来見込みなし、
などと言われていたら、どんなことになっていただろう。
もう一つ、ずっとあとからのことになるが、私にとって忘れられない言葉になったのは

成名毎在窮苦日
敗事多因得意時

の対句であった。出所は福沢諭吉先生とのことだが、
これを渋沢栄一翁が書かれたものであった。額皿である。
私はこれを大事に、大事にして、戦後、昭和二十六年穀物商品取引所が再開されたおり、
理事長室に飾っておいた。これは今もなお残っているはずだ。
成功のタネは必ず苦しい時に芽生え、失敗するのは有頂天になっている時に
原因が生じている、という。まさに、相場の極意である。
勿論、問題は実践にとり入れるか、入れないかにあることは言うまでもないが、
私のような無学のものにとって、終生、大きなよりどころになったのであった。


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