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第8話 甲種合格話は戻る。二十歳になった時、徴兵検査をうけるため、故郷へ帰った。大正三年の夏、ちょうど、第一次世界大戦がはじまった頃である。当時は日本が参戦している、 していないにかかわらず、男子たるもの、必ず徴兵検査をうけ、甲種合格のものは 軍隊生活を送ることになっていた。兵役義務である。 私にとって、上京してからはじめての帰郷であった。六年ぶりのふるさとの姿はなつかしく、 胸にジーンとくるものがあった。 それまでだって、薮入りや正月には休みをもらえたし、帰ってこようと思えば、帰れた。 しかし、一人前の商人になるまではと心に決めていた手前、そうしなかった。 父も、母も元気だった。だが、相変わらずの生活の困窮ぶりをみては何ともやり切れなかった。 私が奉公に出て三年ほどたった頃、祖父が主人のところへ 「種ニはもう三年も勤めたのだから……」と言って金を借りに来たことがあり、 想像はしていたものの、目のあたりにみると、もうしばらくの辛抱です、 と口には出さなかったが思わず心の中で叫んでいた。 さて、富岡小学校で徴兵検査をうけると、甲種合格で、砲兵の印を押された。 合格でも甲、第一乙、第二乙とあり、甲種というのは少なかった。大威張りである。 普通ならお祝いしてもらうところでもあったが、貧乏ゆえに何もしてもらえなかった。 「祝入営」ののぼりもなく、近衛連隊へと入った。もっとも世間では甲種合格だと 入営させられるので、嫌がる風潮もあった。 翌日、中隊長のあいさつで「ことしはじめて一人で入営したものがある」と言われた。 その頃、砲兵の在営期間は三年間であった。私のようなものにとってはどうにも長すぎる。 お国のためとはいいながら、この間は稼ぎに精をだすわけにはいかないからだ。 ただ、実家の困窮がひどいものは二年間という特典があった。それと、衛生兵にかぎり 二年間の特例が認められていた。 たとえ一年でも短くしたい。模範兵になるべし。それでも不十分と思ったので、第一期検閲後、 衛生兵への転換制度があるのを幸い、衛生兵を志願することにした。 この第一期検閲で、私は野砲の照準手として中隊一番の成績をあげることが出来た。 これで、精勤賞を貰い、念願の衛生兵になれた。やれやれである。 この時、役に立ったのは商売で日頃鍛えていたコツだった。暗算と記憶力である。 深川の正米市場で売りさばきの役をしていたが、山繁商店は一、二を争う委託米の取り扱い、 多い日には一日に一万三千俵から一万五千俵も売ったが、それをいちいち帳面につけないでも、 頭の中に入れていた。記憶力は強く、人一倍自信があった。 と同時に計算暗算も早かった。そうでなければ、とうてい毎日の仕事はつとまらなかったのである。 とくに、サヤトリなどはそうだった。この日頃の訓練がものを言った。 中隊長が砲の照準を、右へいくらとか、左へいくらとか指示するのを、素早く計算し、 ピタピタと正確にあわせたのである。 衛生兵になってからは、外出日を利用して、米相場を張った。例によって梅原商店の 加藤さんの所へ注文を出した。 この時は、ほっとした。相場から離れているのがほんとにつらかったのである。 しかし、結果はとんと思わしくなかった。時にはもうけも出たが、ならしてみると、 損にならない程度である。考えてみれば、相場はそう甘いものではない。 頭の中だけで、かりにやってみるのと、実際にやるのでは大ちがいだった。 加藤さんは黙って私の相場をみていただけで、何も言わなかった。 次へ |
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