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あるけみ掲示板

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第9話 山繁さんの死

 「……明けりゃ、除隊も近くなる」。待ちに待った除隊の日が来た。私は真っすぐ山繁の店に戻った。
しかし、翌年、大正六年の一月十三日、主人の初代山崎繁次郎さんが亡くなられた。
主人はずいぶん、きびしかった。どうしてこんなにいじめられるのだろうと思ったことも
一度や二度ではなかったが、商売の方法はもとより、なかでも商道徳、人の道について
教えられるところも大きかった。きびしい仕込みは、実は愛のムチでもあった。
その御恩返しも出来ないうちに主人が亡くなられてしまった。一時は拍子抜けというか、
何かボンヤリしてしまった。「おい、種ニ。何をやってるんだ」という声も聞かれず、
寂しささえ感じたのである。主人の霊は徳川家歴代の霊廟のある上野寛永寺に葬られた。
お墓の脇には御影石の一対の燈篭がある。後日、仲間とともにご冥福を祈り、寄進したものである。

 そのあと、山繁さんのご子息、篤太郎さんが二代目山崎繁次郎さんとして
すぐに店を継がれた。たまたま支配人だった山田恭平さんが独立されたので、
私は市場部長の役目を言いつけられ、全国から送られてくる委託米の売りさばきの
さい配をふるうようになった。二十四歳の時であった。
その年の秋、九月三十日のこと、大嵐がやってきた。風速は四十メートルをこえ、
そのうえ激しい雨も伴っていた暴風雨である。その頃は現在のようにレーダーなどの設備もないし、
予報も十分なものではなかったからやむをえないが、やや油断していた。

 ところが、あっという間に堀から水が上がり,倉庫に浸水してしまった。
明け方がちょうど満潮時にあたり、南の風が吹いたので、高波が起きたのである。
被害は深川一帯から日本橋、京橋にも及んだ。その晩、深川の倉庫に泊まっていたものが、
ハッと気がつくと、畳の上まで水がきていたという状態だった。まさに”寝耳に水”である。
あらかじめ、万一に備えて土のうを積み、入口のところは目ばりをしておけば、
こんなことにならずにすんだのにと思ったが,仕方がない。

倉庫には,高く積んで十二俵、棟の低い倉でも十俵は積んであったが、
下から三俵のところまでは濡れてしまった。九月末といえば、新米の出回る直前、
端境期にあたり、東京には普通なら百三十万俵はあるところ、幸いにも約半分の六十五万俵
くらいしかなかった。しかし、その内、三分の一に当たる二十万俵以上のものがダメになった。
今のお金にすれば実に二十億円の損害である。

 一たん、水に濡れた米はそのままにしておくと腐ってしまう。一部濡れたものはその分を除いて、
俵をつくり直す。また、濡れ米は味噌用に近県向けに送って処分するなど、
翌日から跡始末に大わらわである。だが、とても処分しきれない。
そこで、米俵を水の中に漬けることにした。こうすると、不思議と米は腐らないのである。
さて、倉庫のあたりにはハシケの通る堀がいくつもあるが、ここへ沈めるわけにもゆかず、
結局、深川の木場にある貯木池を借りることにした。

とりあえずはこれでよいが、そのままいつまでも放っておけぬ。何とか、この米を利用しなくてはと
あれこれ考えた末、順次、水から引き上げ、真水で洗い直し、塩気を抜き、蒸気で蒸した上、
天日で乾かした。手数はかかったが、うまいぐあいに、大阪など各地のオコシや、醸造用の原料に
どんどん売れた。ただし、全部売り切るには何と三年もかかった。”窮すれば通ず”の
見本みたいなものだった。もちろん、ソロバンからいうと、割に合わなかったが、
出来るだけのことをしたかったのである。


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